越生通信ー2017年10月

2017年10月9日
投稿先 近況報告

■近況報告

○9月の越生通信に、神学者加藤常昭先生の説教「力ある神の恵み」の要旨前半をのせたところ、後半も早く読みたいとの声がありましたので、今回は後半を記載いたします。(教会での思い出は次号から続きます)。


○10月7日(土)川越教会と越生教会の交流会、この企画は今年初めてのスタートで、川越教会の方と埼玉育児院の子どもと共に、越生教会で交流を行いました。
午前10時30分、越生教会の礼拝堂で礼拝、子ども説教・江田めぐみ師の「ノアの箱舟」のお話、奏楽・木ノ内和美姉の素敵な奏楽と共に、賛美をし、お祈りをしました。その後、みどり幼稚園のホールで、ゲーム大会を子どもも大人も一緒に体を動かしてすることができました。風船を膨らませて、風船の上に、ノアの箱舟に入れる動物を思い思いに描き、風船ゲームを楽しみました。沢山体を動かしたので、お腹もすいて、昼食を美味しく食べました。その後、工作で「ぐるぐる回るレインボー」を作り出来上がった子どもたちは、思い思いに手で回して楽しんで色々な形を作っていました。朝少し小雨が降っていたので、ハイキングは無理かと思っていると、その後、良いお天気になり、川越教会の皆さんは、裏山の桜山展望台から、無名戦士の記念塔へ行き、雨上あがりの澄んだ空から遠くにスカイツリーを見ることができたと言って喜んで帰ってきました。その後、園庭で埼玉育児院の子どもたちが素敵な歌を二曲披露してくださり、お祈りをして交流会を閉じました。その後、皆さんは山吹の里をハイキングして帰路に着きました。
この交流会では、近隣の教会との交流会を持つことができ、とても楽しいひと時を過ごすことができました。子どもたちの笑顔が輝いた一日でした。

        礼拝の風景           記念写真ハイチーズ!


特集 加藤常昭先生の説教要旨9月号の続き

私は既に洗礼を受けておりましたけれども、熊野先生の書物を通じて、ルターが愛された天国の喜びをもらい、その翌年伝道者になる決心をしました。神の恵みの力に押し出されて伝道者になり今日に至る。こんな風にありたいことはないと思います。   ルターは1517年10月31日に新しい神の義の理解を得ながら、当時の教会のやっていることについて疑問を持ち、95条の文で問題提起をした。今でもヴィッテンベルクの町を尋ねると、ルターが起こした棕櫚の教会の扉のところに、この95条の問題提起が銅板で刻まれて掲げられています。95条全体はなかなか専門的で、神学的だが難しい言葉が連ねられており、また、当時の状況を反映しているものです。しかし、その第一行がとても大事なものである。今年は、そのヴィッテンベルクの95箇条の問題提起が掲げられてから、500年になるので、このことを記念して世界中で色々なことが行われると言われている。ルターは、神の恵みの力に今生きているかどうかを問い正し顧みる。キリスト者の務めでありました。その第95箇条の第一行は、「わたしたちの主にして師であるイエス・キリストがあなたがたは悔い改めなさいと言われた時、これは、マルコによる福音書第一章14~15節でキリストの説教が記されている。その言葉を振り返ることで、「神の国は近づいている」だから悔い改めて福音を信じなさいと言われたみ言葉を、主イエスは悔い改めよと言われた時、それは私たちの全生涯が、日毎に悔い改めであるということである。私はこの言葉をずっと心に刻み付けてきて、繰り返し続けてまいりました私たちになくてはならないものが二つあって、手に入らない。それを与えてくださると言う。それは何が出てくるか、何をお求めになるのでしょうか。それは日毎の糧です。そして罪の赦しです。ルターの日毎私は悔い改めるという勧めに会い応えようと思って、悔い改めるならば、ただ、神の赦しによっているほかない。肉の糧も神さまから頂くので、人として生きるために、どうしてもできることができないでいる糧を罪の赦しとして神が与えてくださる。十字架の主イエス・キリストの恵みの力でこの力で生きよと、毎日曜おっしゃってくださる。

ローマ3章22節に、「イエス・キリストを信じることにより」、その訳されている言葉が、今、日本聖書協会では、新共同訳に代わる翻訳の準備をしています。この「イエス・キリストを信じることによる」イエス・キリストを信じるという言葉が「イエスの真実によって」と変えられました。真実の信仰とは信仰の真です。英語で言うとFace of Jesus Christというofと言う言葉がある。この言葉は、Love of Godと言う英語でありますと、ここで皆さんはどう訳すかと考えますと、「神の愛」、「神からの愛」と普通理解すると思います。神さまからの愛です。イエス・キリストの信仰というと、私たちもイエス・キリストを信じるかと思ってしまいます。けれども考えてみたら、LoveもGodも同じで、イエス・キリストが信仰を持ってくださると何故読んではいけないのか。これも今も論争が続いていて結論が出ておりません。

「イエス・キリストが真実である」と知って下さる。人間の中で唯一人神に対して、真を貫いたのは、イエスだけであると共にあるとはっきり書いてあります。私たち人間は神に対する信仰すらおぼつかない。すぐに信仰において威張る。俺の信仰はと言いだす。何よりも証拠に、そこで他人の信仰を裁くからである。私の信仰すらおぼつかない。そこで神に対する真実を貫いたのは真実だけである。私たちの信仰と言うものは、このイエス・キリストの真実に呼びたのんでいる神の力と言うもの、わたしの信仰まで支える。私の自分の力で信仰を持たなくてはいけないと言うものではない。信仰とは神さまから与えられて頂くものであるからである。

 ヴィッテンベルクの教会の扉に掲げられたルターの「95箇条の提題」