越生通信2月

2018年2月12日
投稿先 近況報告

■1月21日(日)主日礼拝は、聖望学園高等学校の男子学生8名と共に、礼拝を守ることができました。聖望学園は、キリスト教主義の学校であるので、学生の課題として年に二回は、最寄りの教会へ出席するようにとの課題の中での出席でした。聖書の御言葉の中に、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(口語・伝道の書12・1)と記されているみ言葉があります。聖書の御言葉は「神の生きた御言葉」です。折角キリスト教主義の学校に入られた皆さんが、この機会に少しでも神を知る御言葉に触れて、多くの学びができるように、祈っています。

礼拝の風景

■1月28日(日)東松山教会と講壇交換の日、私は、車で教会へ向かいました。教会へ着くと丁度CS(日曜学校)から参加し、十戒のお話を、聞くことができました。CSには子どもの姿がなく、大人が7名で守られていました。礼拝の説教は、『主にあって喜ぶ』ということで私がお話をしました。その後、愛餐会で皆さんの手作りのちらし寿司とすまし汁などを頂いた後、交わりの会では、とても温かいおもてなしに感謝!また、その中で、私の父を知るKさんがいらして、父が武蔵豊岡教会の牧師をしている時に、そのKさんの家庭集会で賛美歌270番の歌を歌ったこと、その歌がKさんにとっては愛唱歌になっていることを伺いました。

愛餐会の風景(東松山教会にて)
ちらし寿司を前にして

 

 

 

 

 

 

ー教会の思い出ー(ここまで来るまでの道のり)

M・A

洗礼を受けた最初のホーリネス教団の教会には、結婚までの1年半いました。23歳の頃で、男4人女3人の青年会ができ、徹夜祈祷会をしたり、クリスマスイヴには信徒の家を廻って賛美歌を歌いました。クリスマスでは、青年会の劇やプレゼント交換会があり、私はハイネ詩集等文庫本3冊頂きました。翌年の4月には、10日間位泊まり込みのCS教師の研修会(所沢)に参加しました。5月は主人と結納を交わし、さくらんぼが出廻る頃、山手線(淀橋教会)の古い教会へ夜学の学び(レビ記)に青年会3人で通いました。短い独身時代をCS奉仕や研修に明け暮れました。11月に結婚し、未信者家庭の環境は想像を超えたもので、しばらく教会を休みました。やがて時々、家庭訪問をしてくれた聖教団の教会以前同様は、聖歌を使っていたので、そちらへ転会、同じ年頃の4人の仲間ができました。幼子2人を連れて、私も湯河原の夏期聖会に出席したり、家庭で土曜学校も開きましたが、近所から陰口が入り、父母の顔もあって1年半で中止しました。

聖教団には7年間いましたが、牧師が辞任される時、「あなたはご主人のいるみどり幼稚園の教会に転会された方が良い」と言われ、「はい、そうですか」と移ったのでは上手くいかないと他人のせいにするでしょう。何事も自分で責任を持たなければいけない。結婚の時と同様、断食をして決心しました。

4人目の子は中村蔵人牧師が名前を付けてくれました。この教会では、改めて信仰について学ばさせて頂いています。今まで30年、出会った人々に感謝!

 

講壇交換(東松山教会の先生を囲んで1)

 

■ コラム

賜物をいかに使うか

御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。(ヤコブ1・22)

私たちは聖書の御言葉から、神さまの生きた御言葉を頂くことができます。人はそれぞれ、神さまから与えられた賜物(能力)を頂いています。そしてその賜物は「みんな違ってみんないい」のです。それを正しく受け止めないと、次のようなことが起こります。 「私は頭が悪いから」と言ってしり込みします。能力に対する不安は誰でも持つことでしょう。多くの人々が自分の無能をかこって不満な生活をしています。自分には能力がないと思い込んで、惜しいチャンスをみすみす逃しているのです。そして、私たちは能力について誤解しているのではないでしょうか。

本当に問題なのは、自分がどれだけの能力を持っているかではなく、自分が持っているものをどのように用いているかであります。持っている能力の量よりも使い方のほうが大切ではないでしょうか。どんなに小さな能力であっても、常に自分のできることに全力を注ぐ人は、いつか道を究めて、知らないうちに頂点に立つことができるのです。また、その居る所で人々にあてにされ不可欠の存在となるのです。ですから、「自分にはわずかなことしかできないからということで、何もしないのは、人生の誤りであります。まず、自分にできることをすることです。」完全を求めるから、億劫になりできないのではないでしょうか。それよりも不完全であっても何かする方がいいのです。

どんな小さな能力でも、しまっておいて干からびてしまうよりも、擦り切れるまで使った方がよいのです。だって能力は使うと擦り切れてなくなるものではないからです。神さまは、賜物としてくださった能力は、使えば使うほど増えてくる不思議な力として、私たちに与えてくださっているからです。