越生通信9月

2018年9月9日
投稿先 近況報告

■8/19(日)江田師は夏休みのため、主日礼拝は中村町教会を訪ねた。牧師は、東京神学大学の教授であり、恩師の説教を御言葉から始まりみ言葉で終わる力強い説教を拝聴することができ感謝である。今、パラグアイの宣教師として伝道している知花スガ子宣教師は、中村町教会の協力牧師であり、ここの教会の皆さんが支えてくださり、守られていることが、司式者の祈りを通して、また、説教者の世界宣教を通して知ることができ、我がことのように嬉しくなった。パラグアイの新会堂建設もいよいよ始まり、大きなトラクターが入り、整地を始めた。但し現地の習慣は日本と違い、マイペースな動きを見守りながら進んでいるとのこと。皆さん新会堂建設を覚えて、お祈りください。

中村町教会 外観
礼拝風景

 

 

 

 


■昨年の夏休みの主日礼拝は、東村山教会へ出席した時も、特別説教で加藤常昭先生の説教を拝聴することができたことは、感謝であった。その時の説教の御言葉は、今でも思い出す。御言葉から、スイート(甘い)を感じ取るようにという説教を聞いて、喜びを頂いて帰ってきたことを思いだす。説教を聞いて、私たちはその御言葉に生かされ、一週間の歩みを喜びをもって生活できることは、何とすばらしいことか。御言葉には、神の力と聖霊が働いて私たちの枯れていた生活に潤いを頂けることは、感謝である。


―私に影響を与えた本ー

T・Y

十字架上において、他の人間全てから見放された孤独のどん底で、イエスは神を呼び求めた。その箇所を読んだ最初の頃、孤独の中でこそ、人は神と向き合うのだろうと思った。 同じ頃に、森有正を読んでいた。人は、固有の経験をもって生きるが故に、他のものとは置き換えられない。それが個としての私という存在であり、その現実を孤独として受け止めていく。誤読かもしれないが、森有正の語る〈孤独〉という言葉をそう理解した。

アブラハムが神の呼びかけに応え旅立ったのは、森有正の言葉でいえば〈内的促し〉であった。他者の入り込めない内面の孤独において、人は神と向き合い対話する。その対話があって、私たちは個を確立する。個人が自覚されてこそ、自由と責任は意味を持つ。他人の言葉や世の常識などに左右されるのではなく、神と己との一対一の関係の中で、人は自身の在り方を問い、いかに生きるかという促しを与えられて、人は責任と自由を持つ主体となるのではないか。アブラハムの旅立ちとは、そういうものであったのではないか。

最終的には、人は自分で判断し、自分の責任で自由に行動する。そして全ての結果は神に委ねるしかない。20代の前半に森有正を読み、その影響を受けたものとして生きてきたように思うが、それが影響に縛られたものなのか、それとも純粋に自身の判断なのか、今だによくは分からないが。

 

 

 

 

 

 

森村有正作品


■-内省の目ー

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(マタイ6・22~23a)

私たちは、人に対して賢明であるよりも、自分自身に対して賢明である。私たちは、人のアラは良く見えるものである。そして、他人の背中もよく見えるが、自分の背中は見えない。人間の目は他人を見ることには都合よくできている。けれども、自分を見ようと思うと、鏡を使わなければ分からない。心の目についても同じことが言える。ある人たちは他人の心を読む。しかし、自分自身の心を見る視力は当てにはならない。私たちの心もまた鏡を使わなければ見ることができない。

相手の欠点が強く目に映れば映るほど、同じ欠点が自分にもある。相手の欠点は自分の欠点を気付かせてくれる鏡である。人のことは良く見えるから。しかし、自分の心が「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレミヤ17・9)に気付いている人は少ない。

私たちは、人に対して賢明であるよりも、自分自身に対して賢明であることを学ばなければならない。批判は、批判を受けている「ちり」に比べるなら、「梁」であることに気づかなければならない。私たちの目が人を見ているように、私たちもまた、人から見られている。「人の振り見て、わが振りなおせ」ということわざがあるが、「自分自身の不幸によってよりは人の不幸によって学ぶ方がずっといい」のである。けれども、私たちの目にとまる人の欠点や失敗は、鏡に映った自分のものであることに気づかない。

 自分自身に対して賢明であることより、他人に対して賢明であることの方がずっと優しいのではないか。

私たちも人の経験の中に自分を見る内省の目を育てなければいけない。目は心の窓というように、いつも澄んだ目を持ちたいものである。