越生通信_2017年7月

■近況報告

初夏に鮮紅色の花を咲かせるザクロを皆さんは知っていますか。

ザクロは果皮が赤く先端がとがっていて、熟すと裂けるという特徴があります。旧約聖書や古代の医学書などにも登場しているザクロは,5000年以上前から栽培されていました。昔から健康や美容に良いとされており、好んで食べられいたようです。日本へは平安時代に渡来したと言われています。

私は以前、イスラエルに旅した時に、ある町の市場に大きなザクロが沢山並べられていて、ざくろの搾りたてのジュースを飲んだ時、新鮮で甘酸っぱい味が口の中に広がり、美味しかったことが思い出されます。

我が家には、ザクロの木があり毎年ザクロの実がなります。ザクロの木から出た枝には鋭い針のような長いとげが沢山ついています。

今年はそのザクロの木のところに、山鳩のつがいが来て、卵を二つ産みました。その卵から、ひなが孵るのを楽しみにしていましたが、ある雨が沢山降る時、その巣を覗くと親鳥はいないで、卵が二つあるだけでした。

これではひなが孵ることは無理かと思っているところに、また親鳩が返ってきて卵を抱いていました。さてこれから上手く孵すことができるか我が家では無事にひなが孵ることを祈っています。

ザクロには抗酸化作用のあるデルフィニジン、シアニジンなどのアントシアニンや、エラグ酸などのタンニン類が含まれていますので、生活習慣病予防に効果があるといわれています。

ザクロの木の上の巣       ザクロの実


■教会での思い出

(F.W)

40年前に結婚を機に越生に住み、越生教会に来ることになりましたが、出産、子育てに追われほとんど礼拝を守ることができませんでした。何年か経ち、少しずつ教会に行かれるようになっても、教会の中の人間関係のむずかしさが見えてくるようになりました。教会=神=平安な場を求めて来たのに何だろう?自分の信仰生活を棚に上げ、教会に失望しかけた時代もありました。

教会が無牧になり、存続の危機にも何度か出会いました。何かと問題が生じ財政的にも厳しい小さな教会に牧師は来て下さるだろうか…神さまの御業は計り知れなく私の懸念を超え、何人もの牧師を遣わして下さったのです。それも牧会や教育の場で活躍なさった経験豊かな牧師達に出会い、聖書を学び養い育ててくださいました。切実に教会のために祈り、熱く御言葉を語り続けて下さり、教会に行くから‟みことば„を聴く喜びと感謝があります。

今は礼拝にオルガニストも与えられ厳かに礼拝を守り、その他、毎週聖研祈祷会、月1度の「オリーブの会」として教会は敷居が高くて入れない方々のために、料理、ステンドグラス創作等を通して求道者たちに呼びかけ、交わりの時を持つようになり、教会が整えられてきました。

70年間の間の長い歴史と数えきれない多くの方々が丘の上の教会から響き渡る鐘の音と賛美の歌声を町中に流し、福音を伝えよう!と当時何もない荒れ地を耕し、夢と希望を抱き教会を設立して教会の礼拝を守り、召されて行かれました。

この中に加えられている小さき弱い罪人である私がいることに気付かされました。

教会には主(聖霊)の働きがあるのです。主イエス・キリストの十字架のあがない、罪の赦し、永遠の命を約束してくださっているのです。高齢化や子供や若い人達のいない現状を前に教会の継続と課題はありますが、越生の地に十字架が立ち続けることを祈り信じています。


■コラム

―共に喜び共に泣く―

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマの信徒への手紙12・15)

 喜びと悲しみとは、この世に生きる人間の心の最も直接的、具体的な表現です。

人の痛みや苦しみに共感できることは素晴らしいことです。これは愛の具体的な表れです。イエスは愛する弟子ラザロの死に直面して涙を流し、またカナの婚礼に列席して、味の良いぶどう酒をもって一席を祝福されたのです。ドイツ語に、Schadenfreude(シャーデンフロィデ)(他人の不幸を喜ぶ気持ち)と言う言葉があります。

今日のような競争社会においては、他人の不幸や悲しみを共に担うことは難しいのです。

愛する者を失った人に慰めのすべてを知らず困る場合があります。言葉の無力さ、限界を感ずるのです。そんな時、私たちが心からその人と共に泣くだけの共感を持っていることが、慰めになるのではないでしょうか。そうは言っても、泣く者と共に泣く事だけが共感を感じる事のすべてではありません。ローマ書12・15節では、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」と勧めています。ある人は「人は泣く者と共に泣き、天使は喜ぶ者と共に喜ぶ」と言いましたが、人と共に喜ぶよりは、人と共に泣く方がやさしいのではないでしょうか。

友人があなたを越してあなたが憧れていた地位についたり、あなたよりも何でもできると言うと、あなたは心から友人の喜びを共にすることができるでしょうか。表面は喜んでいる態度をとるかもしれませんが、内心はどうでしょうか。心の底から喜ぶ者として共に喜び、祝福できる広い心を持てるようになりたいものです。キリストのように、いつも他人に関心を持つ愛の心がそれを可能にすることができるのではないでしょうか。

カテゴリー: 近況報告