越生通信ー2018年4月

近況報告

■近況報告

○越生教会の研修会は、2018年3月11日に行われました。今回の研修会は、本庄教会の疋田國磨呂牧師を講師としてお迎えし、「ディボーション(御言葉の傾聴)を身につける」(豊かに実を結ぶ信仰者としての歩むために)講義と実践の分かち合いから、学ぶことができました。聖書の中に書かれている出来事や心理が、現在の自分の生活の中で、どんな意味をもっているかを、読んだ聖書の御言葉から探し(聴く)のです。そして心に一番残った御言葉を書き記し、そこで教えられたこと、悟らされたことがあったら記します。日々の生活の中で、御言葉の傾聴の備えは、神さまと向き合うために、1.静かな時間2.静かな場所3.静かな心を準備し、信徒一人ひとりが主の弟子としての自覚をもって応答してください。見いだした心理、悟った恵み、示された教え、指摘された罪などを感謝し、祈りつつ自分の状況や生活に適用し応答するのです。このディボーションを通して、より聖書の御言葉を通して、日々の生活に潤いがまし加わったことに感謝です。

ディボーションの礼拝説教
愛餐会(花見をしながら頂いた昼食)

 

 

 

 

 

■4月1日(日)イースター礼拝を行いました。愛餐会は外の青空のもと、桜の花が満開の中、びわの木の木陰で心地よいそよ風に吹かれながら、オープンサンドイッチを頂きました。越生教会の周りでは、うぐいすの声や、小鳥のさえずりのもとで説教をできることは、神の恵みと喜びを感じます。


―自分に影響を与えた人―

″今でも父母に感謝″ 石黒康忠

現在満77歳の小生が感謝をもって、主日礼拝を守ることができ神の摂理に生かされていることに信仰の確かさを覚えます。

思えば幼児期病弱で過ごし、家族、親族の支えに守られて今日を迎えることができて居ります。なにしろ小生が初孫で親族からも大事にされましたが、生まれてすぐに肋膜炎にかかり、合わせて現在でいう皮膚炎(アトピー)で包帯を常に身につけていたとのことでした。

学童期を迎えた頃、病弱であった小生の将来を考えて私学一貫校を選んで入学できました。但し、本人は余り病弱とは感じておらず近所の悪童共に遊びに夢中で自然と元気をつけていま した。ところで普段余り親子の会話もなく、気がつくとなんと忙しい仕事に携わっている父親としか思っていませんでしたが、父は若い頃から努力家で仕事その他語学(英語)、運動〈野球、スケート、社交ダンス〉又、麻雀、パチンコと全てに於いて一流と思えました。小生は全てに於いて父親の後姿を見ていたようです。しかし、どれ一つとして父を越える力量はなく、その父も70歳で亡くなりました。

いまペンを取って気がつきました。小生の念願であった父を越えることが現在叶っていたのです。それは小生が父母より長生き出来ていることです。これまで何事に於いても叱ることのない父であっただけに小生にとっては最も怖い存在でした。しかし父母を想い、その先に主イエス・キリストを見出すことができました。それだけに、他人に迷惑をかけず自分に厳しくする気力を身につけることができました。平安!


■コラム

信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確信することです。(ヘブル11・1)

目標とはものごとが将来のある時点でどうなることを私たちが望むかという表明することです。また、私たちがこのようにしたい、あるいはこのように行いたいと思っていることの公約であり、予想であります。目標とは望んでいる事柄を確信し、まだ実現していない夢を信じることです。目標は私たちが人生を形造ることにあたって大切な役割を持っています。

私たちは、新年によく「一年の目標」を立てますが、それを一年間守ることは難しいのではないでしょうか。三日坊主に終わるかもしれません。けれども、目標を掲げ、計画し、何かを始めることをしなければ、目標に到着することはできません。目標が私たちの心構えを与えてくれます。けれども、目標を持つことをしない人もいるかも知れません。しかし、その人の目標は常にその人を造ることになります。実際、一度目標が決まると私たちは、目標に向かって進むことに必要なエネルギーを一心に集めることをします。人はだれでも、自分の立てた目標以上の人になることは難しいのです。素晴らしい目標を立て、人生を素晴らしく生きたいものです。あなたの目標が、あなたと言う人をつくるのです。大きな目標を立てるよりも、小さくても目標を一つずつ達成することが自信を生むことができるのです。目標は具体的であればあるほど、「やる気」が出るのです。ですから、ほどほどに難しく、達成可能になるような、目標からはじめましょう。目標は高すぎても、「やる気」を失わせてしまいます。達成可能な目標を設定することによって、私たちは意欲を燃やされ、仕事に人生に大きな満足と喜びを味わうのです。

越生通信ー3月

近況報告

 ■オリンピック選手を通して与えられた感動

四年に一度の平昌オリンピックが開催される中、韓国と北朝鮮の二人の代表選が統一旗をもって入場したシーンは、平和な世界がこれからもずっと続くようにと祈りました。

スケートの、羽生結弦選手の金メダルは、66年ぶりの2連覇であり、一時は右足の怪我のために、選手生活を危ぶまれなければいけないのかと考えたこともあった中、彼の頑張りは、見る人一人一人に感動を与えた。また、宇野昌磨選手は、決勝戦の時に上を目指して気負いすぎたか、一回目のジャンプはしりもちをつき、失敗した後でも、「頑張ろうとし、笑いがこみあげてきた」と言って、自分をコントロールして、その後からは自分の滑りができたという切り替えは、見事なものであった。スピードスケート500メートルの、小平奈緒選手のスケートに取り組む姿の影には、人知れぬ練習があり、気圧が高く記録が出にくい低地のリンクで、史上初の36秒台の記録を出し、金メダルを獲得した。進化の道のりは、恩師、結城匡啓コーチとの「出会い」であった。日本よりも進んでいるオランダで、練習拠点を持ち、小平は知識も自力で吸収し、2年間そこで努力し自立心が育った。彼女の原点を見ると、父、安彦さんと試行錯誤を繰り返した練習がある。スケートは素人の父であったが、幼い奈緒さんにトップ選手の映像を見せたりして、父親が持っている知識に、言われるままに取り組んでいた彼女がいた。スケートは重心をどこにかけるかのコツをつかむため、一本高場下駄とチーターの姿勢から自分の姿勢が生みだされた。オリンピック選手の影には、そんな素晴らしい練習が隠されているのだ。小平選手は表彰台に立って、メダルを手にして、「本当に一人では越えられない壁があって、この金メダルがある」と言っていた。小平選手だけでなく多くの選手の影には、多くの支えがあり、その姿があることであろう。

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越生通信2月

近況報告

■1月21日(日)主日礼拝は、聖望学園高等学校の男子学生8名と共に、礼拝を守ることができました。聖望学園は、キリスト教主義の学校であるので、学生の課題として年に二回は、最寄りの教会へ出席するようにとの課題の中での出席でした。聖書の御言葉の中に、「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(口語・伝道の書12・1)と記されているみ言葉があります。聖書の御言葉は「神の生きた御言葉」です。折角キリスト教主義の学校に入られた皆さんが、この機会に少しでも神を知る御言葉に触れて、多くの学びができるように、祈っています。

礼拝の風景

■1月28日(日)東松山教会と講壇交換の日、私は、車で教会へ向かいました。教会へ着くと丁度CS(日曜学校)から参加し、十戒のお話を、聞くことができました。CSには子どもの姿がなく、大人が7名で守られていました。礼拝の説教は、『主にあって喜ぶ』ということで私がお話をしました。その後、愛餐会で皆さんの手作りのちらし寿司とすまし汁などを頂いた後、交わりの会では、とても温かいおもてなしに感謝!また、その中で、私の父を知るKさんがいらして、父が武蔵豊岡教会の牧師をしている時に、そのKさんの家庭集会で賛美歌270番の歌を歌ったこと、その歌がKさんにとっては愛唱歌になっていることを伺いました。

愛餐会の風景(東松山教会にて)
ちらし寿司を前にして

 

 

 

 

 

 

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越生通信 2018年1月

近況報告

■ 近況報告 2018年新しい年を迎えました。今年は戌年、寒さに負けず「犬は喜び庭かけまわり…」と歌われているように、私たちも元気に前を向きしっかりとした目標を立てて、この一年を過ごして参りましょう。
牧羊犬は、羊の群れを元気に走り回り主人が支持するところへと誘導しますが、羊の目は、なんと人間と違い、320度周りを見ることができるということは、びっくりです。私たちも牧羊犬が、元気に走り回る姿を見て、この一年主イエス・キリストに仕えてまいりましょう。

◯12月24日(日)のクリスマス礼拝後、愛餐会は、手作りの温かいシチュー、パンとサラダ、手作りケーキなどをたらふく食べた後で、人形劇「イエスさまのお誕生」を皆さんで、好きな配役になり、舞台に立って演じました。ほとんどぶっつけ本番に演ずることになったので、色々なハプニングがありましたが、演じている皆さんは童心に返り、演じている姿は、真剣そのもの。舞台裏は、中腰で行わなければいけないので、終わった後は、皆さん筋肉痛になってしまったようです。それでも皆さんの笑顔はとても素敵でしたよ!

愛餐会の風景
人形劇を演じているところ

 

 

 

 

 

 

■ 教会の思いで
E.S
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」そして子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコ10・13~16)
私が越生教会に足を運ぶようになった頃、長女はまだ3歳でした。娘を連れて礼拝に参列するのですが、娘は席をたったり座ったり、話し始めたりとじっとしていられません。わたしが「しー。」と口の前に人差し指をたてて怖い顔で言うと、いっときは静かになりますが、そのうち飽きてしまい、最後には園庭に出て行って遊び始めてしまいます。周囲の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいの時、天に召された塩田兄が優しい笑顔で近づいて来られ「いやー。子どもの声が教会で聞こえるのは何よりの恵みです。」とおっしゃってくださり、肩の力がスーッとぬけたことを覚えています。また、礼拝しながら、園庭で遊ぶ娘の姿を見られるようにと、役員の方が窓の脇に椅子を置いてくださったので、落ち着いて説教を聞くこともできました。
越生教会の方々の優しさは、子育てに追われ心のゆとりをなくしていた私にとって、イエス様のみ言葉そのものであり、忘れられない思い出です。

イエスのもとへ来る子供たち

■よきサマリヤ人を通して教えられたこと

そこでイエスは言われた。「行ってあなたも同じようにしなさい。」(ルカ10章37節)

皆さんは、子どもの時、教会の日曜学校へ行かれていたことのある方は、「よきサマリヤ人」のお話を、何回か聞かれる機会があったことでしょう。このお話を聞いて思うことは、私たちもよきサマリヤ人のように、隣人愛を持って人に対して親切にしようと思ったことでしょう。このお話を振り返ってみますと、ある人が強盗に襲われ、半殺しにされて道に放って置かれました。そこを祭司やレビ人が通りかかりますが、皆よけて通るのです。そこへ一人のサマリヤの人が通りかかり、身の危険をかえりみずに倒れている人を助ける話です。

このサマリヤの人をそのような思いやり深い行動にかりたてたものは一体何でしょうか。

それは、相手の気持ちになって見るということです。つまり、このサマリヤの人は倒れている人を見たのではなく、その人の一部となり、この相手と自分を同一視する気持ちがあったのです。又、ただ通り過ぎて行った人々は、エリコの街道では、強盗が出るということがあったので、巻き添えになることを恐れ、立ち去りましたが、サマリヤの人はその恐れを押しやり、行動に移す勇気を持っていたのです。

サマリヤの人は困っている人に手をかすと言う習慣があったのだと思われます。長年の間、彼は他の人が困っているのを見たら、いつも手助けできるように心がけて来たのです。感情移入、勇気、手助けの習慣、これが積み重なって、私たちが思いやりと呼んでいるあのやさしさ、「人の苦しみを共に苦しむ」となるのです。これらを身に付けて、思いやりと言う人生を過ごそうではありませんか。