クリスマス おめでとうございます。

去年の今頃は、来年のクリスマスには、コロナの流行が過ぎ去っていますように、と願っていました。

まだ、新しい変異の登場で、緊張が解けませんが、少し緩和された状況が与えられました。

この2年近く、様々な教会が様々な形で礼拝を守ってきました。うちの教会では、礼拝はしていなかった、近所の教会では礼拝はしていなかったようだ、とおっしゃる方もおられるかもしれませんが、きっとしていました。会堂にいるのは、牧師一人だったかもしれません。役員や、ネット配信の方だけかもしれません。でも、全国の教会で、そこに連なる主の民が、そのときにおられる場所から、様々な形で、日曜日に礼拝を捧げ続けてきました。

そして今、再び集まることができるようになり、喜びの声が上がっています。

今では、たくさんの教会の礼拝をネットで見ることができます。語られている先生の動画、音声だけのところもあります。礼拝全体を発信しているところもあります。聖書に関する音源もたくさんあります。今まで、教会に来たことがなくて、どんなことをしているのか、と思っていた人も、あー、こういうことをしていたのか、と知って下さり、讃美歌が、祈りが、説教が心に届く機会がふえました。

今まで聞いたことがないと言う方も、どうぞ、ひと時、心を鎮めて、聖書の御言葉を聞く機会を持っていただければと思います。御言葉の力は不思議です。心に染み入り、人を立ちあがらせます。

聖書も手に入りやすくなっていて、アマゾンでも売れているようです。

越生教会は、ぎゅうぎゅうに詰めたら40人は入るくらいの会堂です。そこで日曜日に、大体10人前後で礼拝を続けています。密にしないために、そう決めたのではなく、幸い、ずっと少人数です。

去年の9月に就任式をしました。たくさんの方が来て下さり、30人を超えました。その人数を事前に知った時、コロナの対応に、とても緊張しました。でも本当に恵みの時でした。教会の方々と誓いをして、新しい出発をし、それをたくさんの方々が祝福してくださいました。そのころお生まれになった赤ちゃんに、お会いする機会があり、こんなに時間が経ったんだということを受け止めました。あんなふうに成長できたらいいのに。

 

クラスターが発生せずにここまで来ましたが、コロナ前とは違う緊張がずっと続いています。コロナで、人が人と実際に接することから遠ざけられて、一体社会に何が起きたか、これから少しづつ明らかになると思います。キリスト教会においても、そうです。

そこでついた傷も、弱ってしまったところも、さまざまなところで見出されるのではないかと思います。コロナが本当に去っていくのかどうかは、まだわかりませんが、いまわたしたちができることは何か、しないとならないことは何か、主の御声に耳を傾けて、進んでいきたいと思います。

このホームページは、前牧師が、立ちあげて下さいました。こんなに全国に発信できる場が与えられているのに、発信しないのは、主に申し訳ないという思いでいます。なぜ申し訳なく思うかというと、 主はすべての人のために十字架にかかられ、わたしたちの罪を赦し、復活されました。そしてそこに現れた神の愛を伝えなさい、と言われて、わたしは送り出されたからです。主は、こんな、ネット難民の私まで、ホームページの御用をさせようとされているので、わからないながらに、やっていこうと思います。

 

また説教を載せます。

どうか聖霊が言葉の足りないところは補って下さいますように。

 

教会員の方の旅行記を載せます。

越生教会を身近に感じていただけたらとおもいます。越生は本当に美しく、一度来たらもう一度来たくなる場所です。この地に主は教会を建て、礼拝を、地上の牧者と信徒の方々が守り続けてきました。

よかったら、足を運んでみてください。

12月4日 越生教会 伝道師 佐藤彰子 記

 


 

フィリピの信徒への手紙1章12節から26節(その1) 2020.4.26 越生教会説教 佐藤彰子

 

『このことがわたしの救いになる』

 

監禁されたことが福音の前進?

 

今日お読みする聖書の箇所でも、パウロは喜んでいます。今日の箇所でも、と申し上げたのは、1章の初めからパウロは喜んでいるからです。

今パウロは牢屋に入っています。「監禁されている」と13節にあります。

 

でも、それによって、普段親しくパウロの回りにいた人たちとは違う人たち。パウロを見張っている兵隊たちとか、その周りの人たちすべてがイエス・キリストのことを知り始めました。「すべての人々に知れ渡り」、と書いてありますから、大変なニュースとしてみんなの口にのぼっていたのでしょう。パウロが投獄されたのが、悪いことをしたからではなく、ただイエス・キリストを宣べ伝えていたからだということがみんなに知られました。一体何を宣べ伝えていたんだろう、という話にもなったでしょう。後からでてくるように、パウロへの悪意中傷もされたようです。でもイエス・キリストが、新しいところで知られ始めました。

 

またもう一つパウロの回りで起こっていたことがあります。指導者であるパウロが捕まったのに、パウロの信仰の仲間たちは恐れて縮こまるのではなく、かえって確信を得て、勇敢に、御言葉を語るようになったのです。

 

イエス様が十字架にかかった時は、恐ろしくてそこから逃げた弟子たちは、自分たちも捕まって殺されるのではないかと、部屋に閉じこもっていました。そこに復活したイエス様が来られます。復活のイエス様に会い、聖霊をいただいた弟子たちは、伝道の使命を果たしに、力強く出かけていくのです。

 

ここでも同じことが起こっています。

 

パウロが、「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」というのは、このことが「起こったこと」つまり自分や人のちからではなく、神の御力が働いていることを目の当たりにして、パウロはそのことをフィリピの教会の人々にも知ってほしいのです。この喜びで力を得てほしいのです。

 

 

御言葉の力

 

パウロは監禁されました。しかし御言葉はかえって告げ広められました。「わたしは福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし神の言葉はつながれていません。」テモテ第2の手紙2章9節

 

雨も雪も、ひとたび天から降れば

むなしく天に戻ることはない。

それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、

種まく人には種を与え

食べる人には糧を与える

 

そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も

むなしくは、わたしのもとには戻らない。

それはわたしの望むことを為し遂げ

わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ55章10,11節)

 

ここで書かれている「わたし」とは神のことです。神の御言葉は神の力で、神の望むことを為し遂げ、神の与えた使命を必ず果たす。そしてイエス・キリストは生ける神の御言葉です。

 

御言葉は神の望むことを為し遂げ、神の与えた使命を果たします。

 

神の望むこととは、何でしょうか。神が私たちを愛しておられることを私たちが知ることです。そして私たちも神を愛し、お互いに愛し合えるようになることです。そのために御子イエス・キリストはこの世に来られて、十字架にかかりました。痛みと苦しみと恥を受けて、死に至るまで神様に従順であった御子を、神は復活させ、わたしたちのすべての罪をゆるしてくださいました。

そのことを知りなさい、と神は言われています。そのことを信じて受け入れなさい、とおっしゃいます。信じて受け入れなさい、そうすればわたしはあなたを赦す、と神は語られています。

 

救いの達成

 

そしてフィリピの信徒への手紙の1章6節で「あなたがたの中に善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を為し遂げて下さる」とパウロが確信しているように、御言葉はわたしたちの中にも働きはじめました。わたしたちはなにもしていないのに、一方的に神様から、救いへと招かれました。

 

19節に、兄弟姉妹の祈りと、イエス・キリストの霊の助けによって、キリストが告げ知らされていることが私たちの救いになる、とあります。この「救いになる」というところは、遂には救いになる、救いが達成されるという意味です。

 

恐れおののきつつ自分の救いを達成するよう努めなさいあなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」フィリピ2:13

わたしたちは復活の主に出会い、十字架のイエスが、わたしたちが受けるべき恥と苦しみを受け、すべての罪の重荷を負ってくださった。そのことでわたしたちの罪が赦されたということを感謝と懺悔をもって受け入れて、救われました。そしてこの毎日を生かされて歩んでいます

 

しかしわたしたちの現実の毎日は決して生易しいことではないでしょう。なんでこんなことの中に自分はいるのか、こんなつらい目に遭うのかという思いの中を生きなければなりません。しかも、救われた、と言いながら、わたしたちはお互いに愛せない、許せない、そして神様がいないかのように暮らすこともあります。イエス様はわたしたちのために十字架にかかられたのに。

 

しかしわたしたちは救われているし、救いの達成への道を歩んでいるのです。なぜなら神様がわたしたちを愛しておられ、イエス様は十字架にかかり復活され、わたしたちは神の愛の中に招き入れられたからです。何度も何度もそこへ引き戻していただけます。神様は決して見捨てないのです。

 

神がわたしたちの中に善い業を始めてくださいました。同じようにいろいろなところで、いろいろな人々にキリストが告げ知らされ、そこに兄弟姉妹の祈りとキリストの霊の助けが加わり、このことがわたしたちの救いとなる、とパウロは言っています。キリストが告げ知らされていく、とは、神の愛が語られていく、ということです。それは神の御業です。

 

従順

 

だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ、自分の救いを達成するように努めなさい。」フィリピ2:12

 

わたしたちは弱い者だから、主は毎週礼拝に招き、み言葉を下さいます。そこに聖霊が働いて、私たちの中にイエス様の十字架と復活の意味を教え、神様がどんなに私たちを愛してくださっているか、繰り返し繰り返し、わたしたちの心の火を燃やしてくださいます。

 

今、その礼拝への道が険しくなりました。でもだからこそ、従順でいるように呼びかけられています。「従順」、イエス様の姿です。それがわたしたちの救いの達成へと導きます。それはイエス様がわたしたちに望んでおられることです。十字架の死に至るまで従順であったイエス様、わたしたちのために十字架にかかられたイエス様、その愛から自分を遠ざけずに生きるということです。その愛を信頼して生きるということです。

 

獄中のパウロの身の回りに恵みが「起きた」ように、わたしたちのまわりでも、いつも何かが起こっています。何が起きているか、聖霊の助けをいただき、神の働きに目を開かせていただきましょう。よいことを見つけたら、伝えあって喜びあっていきましょう。喜びをわたしたちの力としていきましょう。

 

 

祈ります

 

恵み深い天の父なる神様

どうかわたしたちを憐れんでください。

わたしたちは今終りのない不安の中にいます。

しかし神様、わたしたちはあなたが生きて働く神であられること。

あなたがイエス・キリストをこの世にお与えになるほどに

私たちを愛してくださっていることを知っています。

私たちがあなたを信頼して今週を歩みとおすことができますように。

 

今多くの方が苦しんでいます。

病いに、孤独に、死の恐怖に、生活の不安に、

そしてそれぞれが重荷を背負っています。

どうか救ってください。救い出してください。

一番苦しい時に、いつもそこにいてくださいますあなたが、助けて下さい。

 

どうぞ神様、お一人お一人に力を与えお支え下さいますように

 

どうかこの時を過ぎ去らせてください。


あなたから与えられている数え切れない恵みに感謝し

この祈りをイエス・キリストのお名前によって

御前に捧げます。  アーメン

 

 

 


 

エフェソの街(2)

 

クルーズ船の中の話をしよう。船の食事はバイキングの階(11階)と、一流レストランの階(8階)の両方があった。どちらも大変おいしい料理で、食べたことのない高級料理が多かった。バイキングの階では、七面鳥の丸焼きと、本場のピザの味が記憶に残っている。

肥沃の地と気候の良さがあるのだろうか。果物や野菜が新鮮で、種類も豊富にある。キュウリやザクロも、日本のものよりはるかに大きい。スープはあるが、野菜の煮物はなかったと思う。豪華な食事も全てツアー代金に入っているが、レストランで飲む水や酒は別料金だ。日本と違い、水はジュースよりも高い。夕食は予約されてあり、添乗員がテーブルに毎晩一本(1ℓ)の水をサービスしてくれていた。

 

添乗員は若くて美人で落ち着きのある女性だが、自分のカメラを何処かで無くしてしまったらしい。ツアーの10人(5組)の中に2組の新婚さんもいて、旅行の写真とアルバムにして全員に下さるプランだった。後日「どなたか撮った写真を送ってもらえれば助かる」という連絡が入った。私の他にも誰かもう一人が撮った写真が、やがてアルバムになって送られてきた。

船には劇場、プール、カジノ、スポーツジムなど、あらゆる設備があり快適に過ごせる。

でもうろうろしているだけで疲れてしまう。

 

ギリシャのオリンピアでは、オリンピックの聖火を点火する場所に立ってみた。その昔、東京オリンピックが開かれたのは私が中学2年の頃。あの日の日本の空の青さと、今日のギリシャの空の色はどこか違う。日本の秋は真っ青な空が広がる。同じ十月でも、ここの空は水色に近い青。そして、その空の色が海の色にもなっている。日本の青空は美しいと思う。ギリシャに来た思い出に、石膏の小さな像を一つ買った。

午後四時ごろ、船はトルコに向け、東へ舵を切った。地中海に面した大小の島々をぬけて、イズミール港をめざす。身体が波にゆれるのも慣れてきた。いよいよ明日はエフェソに着く。

 

月さやか 明日はエフェソの土を踏む             

<続く>

 

 

 

一年経ってしまいました

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このホームページを読んでくださって、本当にありがとうございます。

ずっと時間が止まったままだったホームページを更新していきたいと思います。

これから、2020年4月から私(伝道師 佐藤彰子)が語らせていただいた説教と、教会員の方が書いて下さった旅行記を順次載せていきます。

 

 

2020年の4月7日、コロナの緊急事態宣言が出ました。その新しい状況の中で、一体わたしたちは、どのように過ごしたらいいか、教会もとても悩みました。聖書にはこんな言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」

テサロニケの信徒への手紙5章16節~18この言葉の後には「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと書かれています。

わたしは、この「喜び」について、知りたいと思いました。着任した越生教会の方々と御一緒に聖書を読み、御言葉に聴きながら、この状況の中でも、なんとか「いつも喜ぶものになりたい」と思い、フィリピの信徒への手紙を読み始めました。

聖書の初めのほうに、目次があります。旧約聖書と新約聖書と書いてあると思います。その後半の、新約聖書の中で、フィリピの信徒への手紙というのは、11番目にあります。これをご一緒に読んでいけたらと思います。

旅行記は、越生教会の信徒の方のクルーズ船の旅日記です。短歌と俳句を書かれる方で、一つの文章は味わい深い俳句で終わります。フィリピの信徒への手紙もそうですが、新約聖書のたくさんの手紙は、パウロと言う人が当時生まれた教会に向けて書いた手紙です。そのパウロの訪れた町へと向かう船の旅を連載していきます。

越生教会では、コロナの中でも、いろいろな形で、礼拝を続けてきました。

いま各教会での模索が続き、家で捧げる礼拝、ネット配信、今までの形を続ける教会、と試行錯誤しています。どうかそれぞれが、祈りあい、応援しあって、主がわたしたちを生かしておられる、この時間を生き抜いていきたいと思います。

では、説教と旅行記、どうぞお読みください。    越生教会 伝道師 佐藤彰子

 

 

 

『最初の日から今日まで』

   2020年4月19日 フィリピの信徒への手紙 1章1-11節 越生教会礼拝説教

○礼拝が捧げられない!

 今わたしたちは、想像もしなかったような状況の中にいます。世界中の教会が、集まって礼拝を捧げられるのかどうか、で悩んでいるのです。ローマの弾圧の時代、クリスチャンは弾圧を逃れて、カタコンベでの礼拝を行いました。また日本においても、江戸時代の隠れキリシタンの時代、また戦争中に弾圧された時代と、世界においても、日本においても、礼拝を支配者が許さなかった時代はあります。

しかし今回は、相手は小さな目に見えないウィルスで、しかも感染しても、感染した本人すらわからないという状態で人を感染させる。それが、共に礼拝することから私たちを引き離そうとしているのです。集まって礼拝しないからクリスチャンではなくなるわけではありません。しかし、先日聖餐について共に学んだのですが、わたしたちが弱いから、すぐ主の恵みを忘れてしまうものだから、聖餐という、わたしたちが五感で感じ、繰り返し兄弟姉妹と一緒に十字架の赦しと復活の希望を想い起すものを、イエス様はわたしたちにくださいました。

礼拝も同じです。週に一度、礼拝に招かれる、そこでみことばを共に頂く。共に賛美する。それは一人で祈るのとは違うのです。そこで一週間の力をいただく。

『礼拝を豊かに』という本の中で、今橋朗先生は、「聖書的な意味での礼拝が『一人で祈る』というような個人の経験の問題ではなく、神の民が「共に集う」こと(マタイ18:20)、また単に、聖なるものの前におそれおののいて平伏する行為というよりは、生ける神との出会い、会見、対話の中で、教えと祝福とを受けながら、神の民へと形作られていく経験である」と言っています。

しかし実際に私たちは、具体的に集まることから遠ざけられている。これはどういう状態なのか。これは「散らされた状態」といっていいのではないか。

わたしたちは集められ、散らされます。毎回の礼拝においても、集められ散らされてきました。再び集められるまで散らされます。

では、いつ再び集められるかわからない今、わたしたちはどうしたらいいのでしょう。神はわたしたちに何をのぞんでいるのか。

 

○「いつもよろこんでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」

 

テサロニケの信徒への手紙第一の5章16節から18節のみことばです。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることだとはっきり書いてあります。

しかしわたしたちは、どうしたら「どんなことにも」喜べるのでしょう。こんな状態で、何を喜ぶのでしょう。

今日お読みしたフィリピの信徒への手紙1章3節で、パウロは次のように言います。

私はあなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています

パウロは言います。思い起こす度に神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に喜びをもつ。それは、あなたがたが最初の日から、今日に至るまで、福音にあずかっているからです。(フィリピ1:5)

フィリピの教会の始まりについては、使徒言行録の16章の14節に触れられています。紫布という高価な布を商っていたルディアという女性の心を主が開かれ、パウロの話を聞き入れ、フィリピの教会が始まります。しかしテサロニケ人への手紙2章9節には、「フィリピで苦しめられ、辱められた」という経験もパウロは記しています。

 

パウロという人は、初めイエス・キリストの教えを、神の教えに反するものと思っていました。だから、イエスキリストを信じる人を苦しめていきました。そのパウロがイエス様と出会います。出会うというよりも、捕らえられた、と言った方がいいかもしれません。そしてイエス様のことを全く知らない人びとのところに行って、福音(イエス様がすべての人を救うために世に来られ、イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかってくださったことを受け入れ、悔い改めれば、すべての人は赦される)と宣べ伝える者となります。

イエス様の十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命への招きは、初めてそれを聞く人にとってとても信じられないようなことです。しかし、それを聖霊の力で人々が受け入れていきました。それをパウロは驚きをもって経験し、そこに教会ができることに立ち会ったのです。それは人の力を超えたこと。パウロは主の働きを間近で見続け、しかもそこにイエスキリストを信じる人たちを迫害した自分が用いられているということに、真摯に向きあって生きます。大変な苦難を通りながらも、その主の大きな愛の中で伝道していきます。

イエス様が、すべての人を愛され、すべての人のために十字架にかかられ、死を滅ぼされ、わたしたちは永遠の命へと救われたのだ、とパウロは語りました。そして人々がそれを受け入れ、次々と救われていき、フィリピにも教会ができました。そしてフィリピの教会は、4章にあるようにパウロを支え続けました。

これが、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」という、パウロをこんなに力強く喜ばせている源です。

 

○私たちの間で始められた善いわざ

 教会に今通っておられる方々は、どのように教会に足を踏み入れたのでしょうか。今、この文章を読んでくださっている方は、どうしてキリスト教のことを知ろうと思われたのでしょうか。わたしたちには、自分自身が意識するずっと前から、主の御力が働いているのではないでしょうか。

そして信じて、洗礼を受けてからは、それこそ数え切れないほど主が自分に働いて下さる経験を重ねてきたことでしょう。出会わせていただいた兄弟姉妹から、それぞれが受けた恵みの証を聞かせていただきました。主を信じて行われる、その一つ一つのわざに働かれる主のわざを、わたしたちは見せていただきます。わたしたちにも想い起す度に、祈る度に喜ぶことが与えられています。お互いのことを想い起す度、祈る度に、主がわたしたちを救ってくださったことを喜ぶことができます。わたしたちも最初の日から、今日まで、共に福音にあずかっています。

そして福音に心開かれたフィリピの教会に向かって、「あなたがたの間で善いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると、わたしは確信している」(フィリピ1:6)、とパウロは言います。

 

善いわざはもう始まっています。この世界に主が介入しておられる。ご自分のもとに私たちを導いて下さるために。キリスト・イエスがわたしたちのために十字架にかかり、わたしたちの罪をすべてぬぐって復活された。永遠の命にわたしたちを入れて下さった。そのことを信じる者になる。これが、神がわたしたちの中で始められた善い業です。

 

それは、それまで、神などないと思って生きていたものが、神を知り始める、ということです。そして神を知り始める、ということは、それまでの自分の生き方が変えられるということです。自分ばかりみつめていた、その目を神に向かって上げ始める。そしてそこで神の驚くべき愛に出会い、自分が砕かれ、神のものとして生きる者になるということです。それがキリスト・イエスの日までに完成する。

しかし、これを書いているパウロは今獄中にいます。でも監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている。(フィリピ1:7b)パウロとフィリピの教会の人々は、今遠く離れたところにおり、パウロは牢獄にとらわれている。それでも、獄中にあっても、相手のことを想い起すと喜べる。祈る度に喜べる。一緒に恵みにあずかっていることがわかっている。

 

8節にあるように、パウロは、キリスト・イエスの愛の心で、フィリピの人たちのことを思っています。それはパウロ自身が復活の主が自分のために十字架にかかったことを信じ、このフィリピの人たちのために主が十字架にかかったこと、そこまで主が愛した人たちであることを信じているからです。信じさせていただいているからです。

 

○本当に重要なことが見分けられるように

そして最後にパウロはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(フィリピ1:9)

私たちの中には、すでに善い業の始まりがあり、その善い業はキリストの日に実現する。それを確信するパウロは、わたしたちの愛が豊かになることを祈ります。私たちの愛が知る力と見抜く力とを身に着けて豊かになる。

すると重要なことを見分けることができ、清くとがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるようになる。

重要なことを見分けることができる。重要なこと、神のみこころです。なぜそれが重要か。わたしたち人間には、本当の意味で、先は見えません。人間の限界です。さまざまな予想はしますが、今の世の中の何を予想できたのでしょうか。その予想は、どのように今の世の中に善いことを生んだのでしょうか。

この世界をつくり、私たちのことをすべて知り、わたしたちの将来を恵みの中に導こうという神のみこころはどこにあるのか、それを知る以上に確かなことがあるでしょうか。

イエス様はご自分とわたしたちを羊飼いと羊にたとえて語られました。その中でイエス様は、「羊は羊飼いの声を聞き分ける」とおっしゃっています。ヨハネによる福音書10章3節です。羊はその声を知っているので、ほかの者にはついて行かない。自分の羊の名を呼ぶ声を聞き分けて、自分の羊飼いについていく。

皆で礼拝するという、今まで当たり前に与えられてきたことを続けることができない今、わたしたちは辛いけれども、この状況の中で、イエス様の声を聞き分けて歩いて行くしかありません。

パウロが祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、わたしたちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。その道は、知る力と見抜く力を身に着けて、愛が豊かになる道です。しかしわたしたちは、たくさんの間違いも起こします。でも羊のたとえでも、主イエスはちゃんと迷子の羊のお話を加えて下さり、迷子になったらイエス様が探して連れ帰ると言ってくださっています。

今、礼拝に集えない、祈祷会がない、聖餐がない、その中でも、主は語り続けておられます。

イエス様が十字架にかかられ、復活されたときから、主の声は全地に響いています。神の愛がわたしたちに示された。神はわたしたちを愛しておられる。その声をわたしたちは聞き分けることができると主は言われます。羊は羊飼いの声を知っているのです。

 

そしてその声はわたしたちの愛をふやしてくださる。そして義の実をあふれるほどに受ける、つまり主の十字架からあふれる愛に満たされ、喜びにみちることです。イエス様にどんなに愛されているか知っていくわたしたちは、わたしたちの愛が豊かにされていく。そしてわたしたちは神の栄光と誉れとをたたえることへと導かれるのです。そうしないではいられない者にされていきます。

わたしたちは、この災いが過ぎ越すまで忍耐しないとなりません。しかし十字架の小羊の血は、もう、かもいに塗られています。必ず過ぎ越します。今はただ主に信頼することが求められています。本当に重要なことが見分けられるように。そしてキリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエスキリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、神の栄光と誉れをたたえることができるように。(フィリピ1:11)。 それを求めて生きましょう。キリストの日、その日が完成です。イエス様にお会いして、今までのすべてのことが明らかにされます。主の声を聞き分けて、主について行きましょう。

散らされた羊は主が集めて下さいます。主について行けば、わたしたちは再び一つになって礼拝を捧げられます。その日まで、聖霊の助けを求めながら、み言葉を聞き、祈りを絶やさずにまいりましょう。

祈ります

天の父なる神さま

御名を賛美します。

主よ、どうかさまざまな声に満ちた毎日の中で、

あなたの声を聞き分けて、あなたについて行くことができますように。

そこに備えられている、わたしたちのすべきことをお教えください。

どうか、さまざまに迷うわたしたちを憐み、

疲れ切って弱っているものに力と癒しを与え、

希望が持てない苦難の中にいるものを救い出してください。

コロナが終息しますように。

この祈りをイエス様のお名前によって御前に捧げます。  アーメン

 

 

旅の日記

エフェソの街(1)        

浅野美枝子

 

英国のクィーン・エリザベス号のクルーズ船は、今回コロナウィルスの感染で問題視されてしまい、残念に思う。わたしは六年前に、処女航海して二年目という、真新しいイタリアのMSC豪華客船に乗った。重い旅行カバンを置いたままで観光できる利便性に魅力を感じた。

子育てと仕事が一段落した頃、主人の姉と一緒に「クルーズ船で地中海・十日間の旅」に出発した。

初日は、飛行機で水の都ヴェネツィアに着き、そこから船の旅が始まる。イタリア半島を南下して、踵の辺りになるバリ(アルベロベッロの三角屋根の土の家)を見て、ギリシャのオリンピアなど、名所旧跡を見ながら進むコースだ。中でもトルコのエフェソスに立ち寄ることが、私の一番の目当て。聖書に書かれてある「エフェソの信徒への手紙」を読み、2千年も経った今だが、一体どんな街だったのか見てみたいと思った。

夕日に赤く染まってゆくベニスの街並みを、14階建ての屋上デッキから眺めていた。船はゆっくりと動き出し、下の方の観光船から手を振っている人々が小さく見えた。クルーズ船の最上階は、ヨットクラブ会員専用で、私たちとは搭乗口も別である。夜は船の中、昼は観光地巡りの旅が始まった。まだ興奮が収まらないままベッドに入る。

 

波を押し分けて、ぐんぐん進んでゆく音が聞こえる。カーテンを開けて、しばらく暗い海を見ていた。遠くの波の中に赤い灯が小さく見えた。何かの境界灯かと思って気にしなかった。でもアドリア海に出たはず。気になって赤い灯を探した。先ほどより少し大きく見える。この船に沿うように付いて来るようだ。ますます気になり、カーテンを開けたままにしておいた。

次に見た時は、赤い灯が海面すれすれに丸くなっている。さらに数分たって、海に浮かんだとき、それは赤い月だとわかった。埼玉に住んでいる私は、水平線を切って上ってくる月に感動した。海の中に月がいたのかと思うほどだった。

 

波を割き 上る異国の 月赤く

<続く>

 

牧師交代のご挨拶

「神は愛なり。」(ヨハネ第一の手紙4章8節 文語訳聖書)

わたしは、2020年4月に越生教会に主任担任教師として、着任いたしました。越生教会から招聘されたとき、「『神は愛なり』との福音を宣べ伝える教会」これが越生教会の教会形成の指針だと言われました。

わたしは豊島区にある日本基督教団武蔵野教会で、1978年に洗礼を受け、それ以来ずっと武蔵野教会に籍を置き、3代にわたる牧師たちに育てていただきました。洗礼を授けて下さった熊野義孝牧師が常日頃おっしゃっていたみ言葉が、「信仰、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章の13節)でしたので、この招聘がこの2つのみ言葉に導かれて進んでいるように感じました。

この越生教会は、たくさんの伝道者たちと信徒たちの手で、信仰のバトンが受け継がれてきて、この越生の町にとっても大事な存在であることが、教会の歴史を読むと感じられます。そして昨年は代務の山岡創牧師はじめ、多くの先生方が、無牧の一年間の礼拝を担ってくださいました。

わたしが赴任して、すぐコロナのために礼拝を休止する事態となりましたが、この地に越生教会をお建てになった神様のみこころは変わらず確固としたものです。それが「神は愛なり」だと思います。

このような時だからこそ、神を愛し、互いに愛し合うことをわたしたち一人一人が祈り求め、神の愛を信じて、苦難の中で不安におびえる周りの方々のために祈る教会として、この地で働いていきたいと思います。

6月21日から、毎週日曜日の10時半に礼拝をささげています。まだ一度も教会に来たことのない方でも、来ていただけたら本当に嬉しいです。

越生教会 伝道師 佐藤彰子