一年経ってしまいました

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このホームページを読んでくださって、本当にありがとうございます。

ずっと時間が止まったままだったホームページを更新していきたいと思います。

これから、2020年4月から私(伝道師 佐藤彰子)が語らせていただいた説教と、教会員の方が書いて下さった旅行記を順次載せていきます。

 

 

2020年の4月7日、コロナの緊急事態宣言が出ました。その新しい状況の中で、一体わたしたちは、どのように過ごしたらいいか、教会もとても悩みました。聖書にはこんな言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。」

テサロニケの信徒への手紙5章16節~18この言葉の後には「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」だと書かれています。

わたしは、この「喜び」について、知りたいと思いました。着任した越生教会の方々と御一緒に聖書を読み、御言葉に聴きながら、この状況の中でも、なんとか「いつも喜ぶものになりたい」と思い、フィリピの信徒への手紙を読み始めました。

聖書の初めのほうに、目次があります。旧約聖書と新約聖書と書いてあると思います。その後半の、新約聖書の中で、フィリピの信徒への手紙というのは、11番目にあります。これをご一緒に読んでいけたらと思います。

旅行記は、越生教会の信徒の方のクルーズ船の旅日記です。短歌と俳句を書かれる方で、一つの文章は味わい深い俳句で終わります。フィリピの信徒への手紙もそうですが、新約聖書のたくさんの手紙は、パウロと言う人が当時生まれた教会に向けて書いた手紙です。そのパウロの訪れた町へと向かう船の旅を連載していきます。

越生教会では、コロナの中でも、いろいろな形で、礼拝を続けてきました。

いま各教会での模索が続き、家で捧げる礼拝、ネット配信、今までの形を続ける教会、と試行錯誤しています。どうかそれぞれが、祈りあい、応援しあって、主がわたしたちを生かしておられる、この時間を生き抜いていきたいと思います。

では、説教と旅行記、どうぞお読みください。    越生教会 伝道師 佐藤彰子

 

 

 

『最初の日から今日まで』

   2020年4月19日 フィリピの信徒への手紙 1章1-11節 越生教会礼拝説教

○礼拝が捧げられない!

 今わたしたちは、想像もしなかったような状況の中にいます。世界中の教会が、集まって礼拝を捧げられるのかどうか、で悩んでいるのです。ローマの弾圧の時代、クリスチャンは弾圧を逃れて、カタコンベでの礼拝を行いました。また日本においても、江戸時代の隠れキリシタンの時代、また戦争中に弾圧された時代と、世界においても、日本においても、礼拝を支配者が許さなかった時代はあります。

しかし今回は、相手は小さな目に見えないウィルスで、しかも感染しても、感染した本人すらわからないという状態で人を感染させる。それが、共に礼拝することから私たちを引き離そうとしているのです。集まって礼拝しないからクリスチャンではなくなるわけではありません。しかし、先日聖餐について共に学んだのですが、わたしたちが弱いから、すぐ主の恵みを忘れてしまうものだから、聖餐という、わたしたちが五感で感じ、繰り返し兄弟姉妹と一緒に十字架の赦しと復活の希望を想い起すものを、イエス様はわたしたちにくださいました。

礼拝も同じです。週に一度、礼拝に招かれる、そこでみことばを共に頂く。共に賛美する。それは一人で祈るのとは違うのです。そこで一週間の力をいただく。

『礼拝を豊かに』という本の中で、今橋朗先生は、「聖書的な意味での礼拝が『一人で祈る』というような個人の経験の問題ではなく、神の民が「共に集う」こと(マタイ18:20)、また単に、聖なるものの前におそれおののいて平伏する行為というよりは、生ける神との出会い、会見、対話の中で、教えと祝福とを受けながら、神の民へと形作られていく経験である」と言っています。

しかし実際に私たちは、具体的に集まることから遠ざけられている。これはどういう状態なのか。これは「散らされた状態」といっていいのではないか。

わたしたちは集められ、散らされます。毎回の礼拝においても、集められ散らされてきました。再び集められるまで散らされます。

では、いつ再び集められるかわからない今、わたしたちはどうしたらいいのでしょう。神はわたしたちに何をのぞんでいるのか。

 

○「いつもよろこんでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい。」

 

テサロニケの信徒への手紙第一の5章16節から18節のみことばです。これこそキリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることだとはっきり書いてあります。

しかしわたしたちは、どうしたら「どんなことにも」喜べるのでしょう。こんな状態で、何を喜ぶのでしょう。

今日お読みしたフィリピの信徒への手紙1章3節で、パウロは次のように言います。

私はあなたがたのことを思い起こす度に、私の神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています

パウロは言います。思い起こす度に神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に喜びをもつ。それは、あなたがたが最初の日から、今日に至るまで、福音にあずかっているからです。(フィリピ1:5)

フィリピの教会の始まりについては、使徒言行録の16章の14節に触れられています。紫布という高価な布を商っていたルディアという女性の心を主が開かれ、パウロの話を聞き入れ、フィリピの教会が始まります。しかしテサロニケ人への手紙2章9節には、「フィリピで苦しめられ、辱められた」という経験もパウロは記しています。

 

パウロという人は、初めイエス・キリストの教えを、神の教えに反するものと思っていました。だから、イエスキリストを信じる人を苦しめていきました。そのパウロがイエス様と出会います。出会うというよりも、捕らえられた、と言った方がいいかもしれません。そしてイエス様のことを全く知らない人びとのところに行って、福音(イエス様がすべての人を救うために世に来られ、イエスキリストが自分の罪のために十字架にかかってくださったことを受け入れ、悔い改めれば、すべての人は赦される)と宣べ伝える者となります。

イエス様の十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命への招きは、初めてそれを聞く人にとってとても信じられないようなことです。しかし、それを聖霊の力で人々が受け入れていきました。それをパウロは驚きをもって経験し、そこに教会ができることに立ち会ったのです。それは人の力を超えたこと。パウロは主の働きを間近で見続け、しかもそこにイエスキリストを信じる人たちを迫害した自分が用いられているということに、真摯に向きあって生きます。大変な苦難を通りながらも、その主の大きな愛の中で伝道していきます。

イエス様が、すべての人を愛され、すべての人のために十字架にかかられ、死を滅ぼされ、わたしたちは永遠の命へと救われたのだ、とパウロは語りました。そして人々がそれを受け入れ、次々と救われていき、フィリピにも教会ができました。そしてフィリピの教会は、4章にあるようにパウロを支え続けました。

これが、「あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっている」という、パウロをこんなに力強く喜ばせている源です。

 

○私たちの間で始められた善いわざ

 教会に今通っておられる方々は、どのように教会に足を踏み入れたのでしょうか。今、この文章を読んでくださっている方は、どうしてキリスト教のことを知ろうと思われたのでしょうか。わたしたちには、自分自身が意識するずっと前から、主の御力が働いているのではないでしょうか。

そして信じて、洗礼を受けてからは、それこそ数え切れないほど主が自分に働いて下さる経験を重ねてきたことでしょう。出会わせていただいた兄弟姉妹から、それぞれが受けた恵みの証を聞かせていただきました。主を信じて行われる、その一つ一つのわざに働かれる主のわざを、わたしたちは見せていただきます。わたしたちにも想い起す度に、祈る度に喜ぶことが与えられています。お互いのことを想い起す度、祈る度に、主がわたしたちを救ってくださったことを喜ぶことができます。わたしたちも最初の日から、今日まで、共に福音にあずかっています。

そして福音に心開かれたフィリピの教会に向かって、「あなたがたの間で善いわざを始められた方が、キリスト・イエスの日までにその業を成し遂げてくださると、わたしは確信している」(フィリピ1:6)、とパウロは言います。

 

善いわざはもう始まっています。この世界に主が介入しておられる。ご自分のもとに私たちを導いて下さるために。キリスト・イエスがわたしたちのために十字架にかかり、わたしたちの罪をすべてぬぐって復活された。永遠の命にわたしたちを入れて下さった。そのことを信じる者になる。これが、神がわたしたちの中で始められた善い業です。

 

それは、それまで、神などないと思って生きていたものが、神を知り始める、ということです。そして神を知り始める、ということは、それまでの自分の生き方が変えられるということです。自分ばかりみつめていた、その目を神に向かって上げ始める。そしてそこで神の驚くべき愛に出会い、自分が砕かれ、神のものとして生きる者になるということです。それがキリスト・イエスの日までに完成する。

しかし、これを書いているパウロは今獄中にいます。でも監禁されているときも、福音を弁明し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めている。(フィリピ1:7b)パウロとフィリピの教会の人々は、今遠く離れたところにおり、パウロは牢獄にとらわれている。それでも、獄中にあっても、相手のことを想い起すと喜べる。祈る度に喜べる。一緒に恵みにあずかっていることがわかっている。

 

8節にあるように、パウロは、キリスト・イエスの愛の心で、フィリピの人たちのことを思っています。それはパウロ自身が復活の主が自分のために十字架にかかったことを信じ、このフィリピの人たちのために主が十字架にかかったこと、そこまで主が愛した人たちであることを信じているからです。信じさせていただいているからです。

 

○本当に重要なことが見分けられるように

そして最後にパウロはこう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように。(フィリピ1:9)

私たちの中には、すでに善い業の始まりがあり、その善い業はキリストの日に実現する。それを確信するパウロは、わたしたちの愛が豊かになることを祈ります。私たちの愛が知る力と見抜く力とを身に着けて豊かになる。

すると重要なことを見分けることができ、清くとがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉とをたたえることができるようになる。

重要なことを見分けることができる。重要なこと、神のみこころです。なぜそれが重要か。わたしたち人間には、本当の意味で、先は見えません。人間の限界です。さまざまな予想はしますが、今の世の中の何を予想できたのでしょうか。その予想は、どのように今の世の中に善いことを生んだのでしょうか。

この世界をつくり、私たちのことをすべて知り、わたしたちの将来を恵みの中に導こうという神のみこころはどこにあるのか、それを知る以上に確かなことがあるでしょうか。

イエス様はご自分とわたしたちを羊飼いと羊にたとえて語られました。その中でイエス様は、「羊は羊飼いの声を聞き分ける」とおっしゃっています。ヨハネによる福音書10章3節です。羊はその声を知っているので、ほかの者にはついて行かない。自分の羊の名を呼ぶ声を聞き分けて、自分の羊飼いについていく。

皆で礼拝するという、今まで当たり前に与えられてきたことを続けることができない今、わたしたちは辛いけれども、この状況の中で、イエス様の声を聞き分けて歩いて行くしかありません。

パウロが祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、わたしたちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。その道は、知る力と見抜く力を身に着けて、愛が豊かになる道です。しかしわたしたちは、たくさんの間違いも起こします。でも羊のたとえでも、主イエスはちゃんと迷子の羊のお話を加えて下さり、迷子になったらイエス様が探して連れ帰ると言ってくださっています。

今、礼拝に集えない、祈祷会がない、聖餐がない、その中でも、主は語り続けておられます。

イエス様が十字架にかかられ、復活されたときから、主の声は全地に響いています。神の愛がわたしたちに示された。神はわたしたちを愛しておられる。その声をわたしたちは聞き分けることができると主は言われます。羊は羊飼いの声を知っているのです。

 

そしてその声はわたしたちの愛をふやしてくださる。そして義の実をあふれるほどに受ける、つまり主の十字架からあふれる愛に満たされ、喜びにみちることです。イエス様にどんなに愛されているか知っていくわたしたちは、わたしたちの愛が豊かにされていく。そしてわたしたちは神の栄光と誉れとをたたえることへと導かれるのです。そうしないではいられない者にされていきます。

わたしたちは、この災いが過ぎ越すまで忍耐しないとなりません。しかし十字架の小羊の血は、もう、かもいに塗られています。必ず過ぎ越します。今はただ主に信頼することが求められています。本当に重要なことが見分けられるように。そしてキリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエスキリストによって与えられる義の実をあふれるほど受けて、神の栄光と誉れをたたえることができるように。(フィリピ1:11)。 それを求めて生きましょう。キリストの日、その日が完成です。イエス様にお会いして、今までのすべてのことが明らかにされます。主の声を聞き分けて、主について行きましょう。

散らされた羊は主が集めて下さいます。主について行けば、わたしたちは再び一つになって礼拝を捧げられます。その日まで、聖霊の助けを求めながら、み言葉を聞き、祈りを絶やさずにまいりましょう。

祈ります

天の父なる神さま

御名を賛美します。

主よ、どうかさまざまな声に満ちた毎日の中で、

あなたの声を聞き分けて、あなたについて行くことができますように。

そこに備えられている、わたしたちのすべきことをお教えください。

どうか、さまざまに迷うわたしたちを憐み、

疲れ切って弱っているものに力と癒しを与え、

希望が持てない苦難の中にいるものを救い出してください。

コロナが終息しますように。

この祈りをイエス様のお名前によって御前に捧げます。  アーメン

 

 

旅の日記

エフェソの街(1)        

浅野美枝子

 

英国のクィーン・エリザベス号のクルーズ船は、今回コロナウィルスの感染で問題視されてしまい、残念に思う。わたしは六年前に、処女航海して二年目という、真新しいイタリアのMSC豪華客船に乗った。重い旅行カバンを置いたままで観光できる利便性に魅力を感じた。

子育てと仕事が一段落した頃、主人の姉と一緒に「クルーズ船で地中海・十日間の旅」に出発した。

初日は、飛行機で水の都ヴェネツィアに着き、そこから船の旅が始まる。イタリア半島を南下して、踵の辺りになるバリ(アルベロベッロの三角屋根の土の家)を見て、ギリシャのオリンピアなど、名所旧跡を見ながら進むコースだ。中でもトルコのエフェソスに立ち寄ることが、私の一番の目当て。聖書に書かれてある「エフェソの信徒への手紙」を読み、2千年も経った今だが、一体どんな街だったのか見てみたいと思った。

夕日に赤く染まってゆくベニスの街並みを、14階建ての屋上デッキから眺めていた。船はゆっくりと動き出し、下の方の観光船から手を振っている人々が小さく見えた。クルーズ船の最上階は、ヨットクラブ会員専用で、私たちとは搭乗口も別である。夜は船の中、昼は観光地巡りの旅が始まった。まだ興奮が収まらないままベッドに入る。

 

波を押し分けて、ぐんぐん進んでゆく音が聞こえる。カーテンを開けて、しばらく暗い海を見ていた。遠くの波の中に赤い灯が小さく見えた。何かの境界灯かと思って気にしなかった。でもアドリア海に出たはず。気になって赤い灯を探した。先ほどより少し大きく見える。この船に沿うように付いて来るようだ。ますます気になり、カーテンを開けたままにしておいた。

次に見た時は、赤い灯が海面すれすれに丸くなっている。さらに数分たって、海に浮かんだとき、それは赤い月だとわかった。埼玉に住んでいる私は、水平線を切って上ってくる月に感動した。海の中に月がいたのかと思うほどだった。

 

波を割き 上る異国の 月赤く

<続く>

 

牧師交代のご挨拶

「神は愛なり。」(ヨハネ第一の手紙4章8節 文語訳聖書)

わたしは、2020年4月に越生教会に主任担任教師として、着任いたしました。越生教会から招聘されたとき、「『神は愛なり』との福音を宣べ伝える教会」これが越生教会の教会形成の指針だと言われました。

わたしは豊島区にある日本基督教団武蔵野教会で、1978年に洗礼を受け、それ以来ずっと武蔵野教会に籍を置き、3代にわたる牧師たちに育てていただきました。洗礼を授けて下さった熊野義孝牧師が常日頃おっしゃっていたみ言葉が、「信仰、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章の13節)でしたので、この招聘がこの2つのみ言葉に導かれて進んでいるように感じました。

この越生教会は、たくさんの伝道者たちと信徒たちの手で、信仰のバトンが受け継がれてきて、この越生の町にとっても大事な存在であることが、教会の歴史を読むと感じられます。そして昨年は代務の山岡創牧師はじめ、多くの先生方が、無牧の一年間の礼拝を担ってくださいました。

わたしが赴任して、すぐコロナのために礼拝を休止する事態となりましたが、この地に越生教会をお建てになった神様のみこころは変わらず確固としたものです。それが「神は愛なり」だと思います。

このような時だからこそ、神を愛し、互いに愛し合うことをわたしたち一人一人が祈り求め、神の愛を信じて、苦難の中で不安におびえる周りの方々のために祈る教会として、この地で働いていきたいと思います。

6月21日から、毎週日曜日の10時半に礼拝をささげています。まだ一度も教会に来たことのない方でも、来ていただけたら本当に嬉しいです。

越生教会 伝道師 佐藤彰子

越生通信2月

■今年の新年合同礼拝は、埼玉和光教会で1/14(月)最寄り二区19教会伝道所他1区より113名が集められました。説教は、子供向けと全体向けに語られ、どちらも同じ聖書箇所(ヨハネ10章7~18節)が用いられました。子どもたちの説教は、坂戸いずみ教会CCスタッフによる「良い羊飼い」の聖書劇を会場全体使って演じられ、演技を見ている会衆も一体となり、随所で笑い声が上がり、とても微笑ましい劇を観ることができました。全体向け説教は、埼玉和光教会の岩河敏宏牧師が、「一つの群れになる」と題して、私たちはどのように養われようとしているか。聖書には私たちを羊にたとえている。旧約聖書詩編100:3、119:176、イザヤ書53:6節のモチーフにはベースとなって今日の聖書箇所を問われている。また、ヨハネ福音書では、「命を捨てる」、「良い羊飼いである」こと、イエスさまは唯一の羊飼いである。そして、善い羊飼いの具体的なことをお話しくださいました。又、聖餐式の恵みも頂き、礼拝後、愛餐会で軽い軽食を頂き、主にある温かい交流を持つことができました。

私は教師委員で、この新年合同礼拝の段取りから、資料作り、印刷、当日の進行役を担当し、多くの喜びを頂きました。又、多くの方々とお交わりをすることができて感謝です。

新年合同礼拝

聖餐式

聖書劇「よい羊飼い」


私に影響を与えた聖霊

M・A

青年会の集会の司式の時に祈っていると「主ご自身があなたと共におられる」(申命記31:8)と、瞼の中に白い衣を着た人が現れたのです。「私達はどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」

(ロマ8:26)と“霊”自らが祈って下さったのです。「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」(ルカ12:12)これは教団に属した教会から霊の業を通して与えられたのです。

神の応答は病の疑いのある教師の帰国の時も示されたのです。現地の宣教の為には信徒の方々と私達も同じ思いでした。教師のために祈ったことは勿論、教師の所属する教会の信徒の皆様、牧師、関係する人々は心を一つにして祈った事でしょう。病が消え、不安から希望へと光が差したのです。「あなた方も信仰を持ち疑わないならば―その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ21:21,22)教師は現地で宣教に励んでいます。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)大宮教会で行われた「デボーション」は韓国語の同時通訳で、その内容と証しは圧倒的です。「分かち合い」の時です。私は思いました、逃げ出そう、しかし観念して参加しました。初対面のご婦人方5名と私、大宮教会のご婦人がリーダーで、讃美歌を唄い分かち合いが始まりました。内容の観察、神様はどのようなお方、―生活への適用と祈り、この短い時間の内に、幼い頃から一諸に育ってきた感覚に囚われたのです。それは皆様も私も共に感じたことなのです。「私の兄弟姉妹とは神の御言葉を聞いて行なう人たち。」(ルカ8:21)なのです。「神は私達の内に住まわせた霊をねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:5~6)聖霊に満たされ、言葉で言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれて、感謝にたえません。


■講壇交換

1/27(日)講壇交換を越生教会と小川教会で行ないました。礼拝後、愛餐会でそれぞれのお交わりをすることができました。

越生教会礼拝

愛餐会


小川教会礼拝

小川教会の皆さんと一緒に記念写真


■3区合同教師会

1/28(月)3区合同教師会が、武蔵豊岡教会&サイボクハムバーベキュー場で行われました。教会で礼拝後、昼食はサイボクハムバーベキュー場に移り、昼食で、美味しい肉と野菜を頂きながら会話が弾みました。普段忙しい先生方も、一息つかれたのではないでしょうか。とても和やかなお交わりがもてました。

武蔵豊岡教会の礼拝風景

分団で、デボーション

バーベキューを囲んで!

昼食の様子


くつ屋のマルチンを通して教えられた隣人愛

「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。(マタイ25:40)。

皆さんは、教会の日曜学校で、数々の劇をされたことがあることでしょう。この聖書箇所は、私がまだ日曜学校の頃、「くつ屋のマルチン」を演じた時に、覚えた聖書箇所です。ロシヤの文豪トルストイが書いたこの物語は、マルチンが熱心に聖書を読んでいるうちに、聖書のキリストが実際に自分を尋ねて来ればよいのにと願うのです。その夜、夢の中で、「マルチン、マルチン、明日通りを見ていなさい。私が訪ねますから」という天からの声を聞くのです。マルチンはそれが夢か真か、分かりませんでしたが、翌日一日中、窓の外を気にしながら仕事をしていました。こうして外を眺めていると、一人の道路掃除夫が除雪しているのが目にとまりました。作業をしながらも、冷たそうに時々手をこすっています。マルチンは彼を家に招き入れて、お茶を与え、ストーブに当たらせました。また、しばらくすると、女の人が古い布袋で赤ちゃんをくるんで、雪の中外に立っているのを窓越しに見て、マルチンは彼女も家に招き入れ、温かい食事を与えました。マルチンはまた助けを求めて彼の家に逃げ込んできたりんごを盗んだ少年、そして少年を追いかけてきたりんご売りの女の人を招き入れ、この女の怒りを和らげて、少年を許すように言いました。二人がマルチンの家を出た時、少年は女の人のりんごの籠をもって仲良く出ていきました。この最後の場面は、マルチンが一本のローソクを灯した仕事場にしょんぼりしている姿です。

「もう日はとっくに暮れていっているのに、イエスさまは来て下さらなかった」と失望しかけたマルチンの目の前に、突然昼間の道路掃除夫、赤ちゃんを抱いた女の人、りんご売りの女の人と少年が現れ、夜、夢の中で聞いた声が聞こえたのです。

「マルチン、マルチン、私たちを知っているでしょう。私がイエスです。」こうして他人の愛の奉仕をする時に、キリストと出会うと言う真理をマルチンは悟ったのです。

私たちも、主イエスから離れることがあるかもしれませんが、神さまは、私たち一人ひとりを知っておられます。ですから、私たちはこの物語のように、隣人愛を持って、神さまの愛を伝える者になろうではありませんか。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5~6)。