牧師交代のご挨拶

近況報告

「神は愛なり。」(ヨハネ第一の手紙4章8節 文語訳聖書)

わたしは、2020年4月に越生教会に主任担任教師として、着任いたしました。越生教会から招聘されたとき、「『神は愛なり』との福音を宣べ伝える教会」これが越生教会の教会形成の指針だと言われました。

わたしは豊島区にある日本基督教団武蔵野教会で、1978年に洗礼を受け、それ以来ずっと武蔵野教会に籍を置き、3代にわたる牧師たちに育てていただきました。洗礼を授けて下さった熊野義孝牧師が常日頃おっしゃっていたみ言葉が、「信仰、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章の13節)でしたので、この招聘がこの2つのみ言葉に導かれて進んでいるように感じました。

この越生教会は、たくさんの伝道者たちと信徒たちの手で、信仰のバトンが受け継がれてきて、この越生の町にとっても大事な存在であることが、教会の歴史を読むと感じられます。そして昨年は代務の山岡創牧師はじめ、多くの先生方が、無牧の一年間の礼拝を担ってくださいました。

わたしが赴任して、すぐコロナのために礼拝を休止する事態となりましたが、この地に越生教会をお建てになった神様のみこころは変わらず確固としたものです。それが「神は愛なり」だと思います。

このような時だからこそ、神を愛し、互いに愛し合うことをわたしたち一人一人が祈り求め、神の愛を信じて、苦難の中で不安におびえる周りの方々のために祈る教会として、この地で働いていきたいと思います。

6月21日から、毎週日曜日の10時半に礼拝をささげています。まだ一度も教会に来たことのない方でも、来ていただけたら本当に嬉しいです。

越生教会 伝道師 佐藤彰子

越生通信2月

近況報告

■今年の新年合同礼拝は、埼玉和光教会で1/14(月)最寄り二区19教会伝道所他1区より113名が集められました。説教は、子供向けと全体向けに語られ、どちらも同じ聖書箇所(ヨハネ10章7~18節)が用いられました。子どもたちの説教は、坂戸いずみ教会CCスタッフによる「良い羊飼い」の聖書劇を会場全体使って演じられ、演技を見ている会衆も一体となり、随所で笑い声が上がり、とても微笑ましい劇を観ることができました。全体向け説教は、埼玉和光教会の岩河敏宏牧師が、「一つの群れになる」と題して、私たちはどのように養われようとしているか。聖書には私たちを羊にたとえている。旧約聖書詩編100:3、119:176、イザヤ書53:6節のモチーフにはベースとなって今日の聖書箇所を問われている。また、ヨハネ福音書では、「命を捨てる」、「良い羊飼いである」こと、イエスさまは唯一の羊飼いである。そして、善い羊飼いの具体的なことをお話しくださいました。又、聖餐式の恵みも頂き、礼拝後、愛餐会で軽い軽食を頂き、主にある温かい交流を持つことができました。

私は教師委員で、この新年合同礼拝の段取りから、資料作り、印刷、当日の進行役を担当し、多くの喜びを頂きました。又、多くの方々とお交わりをすることができて感謝です。

新年合同礼拝

聖餐式

聖書劇「よい羊飼い」


私に影響を与えた聖霊

M・A

青年会の集会の司式の時に祈っていると「主ご自身があなたと共におられる」(申命記31:8)と、瞼の中に白い衣を着た人が現れたのです。「私達はどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」

(ロマ8:26)と“霊”自らが祈って下さったのです。「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」(ルカ12:12)これは教団に属した教会から霊の業を通して与えられたのです。

神の応答は病の疑いのある教師の帰国の時も示されたのです。現地の宣教の為には信徒の方々と私達も同じ思いでした。教師のために祈ったことは勿論、教師の所属する教会の信徒の皆様、牧師、関係する人々は心を一つにして祈った事でしょう。病が消え、不安から希望へと光が差したのです。「あなた方も信仰を持ち疑わないならば―その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ21:21,22)教師は現地で宣教に励んでいます。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)大宮教会で行われた「デボーション」は韓国語の同時通訳で、その内容と証しは圧倒的です。「分かち合い」の時です。私は思いました、逃げ出そう、しかし観念して参加しました。初対面のご婦人方5名と私、大宮教会のご婦人がリーダーで、讃美歌を唄い分かち合いが始まりました。内容の観察、神様はどのようなお方、―生活への適用と祈り、この短い時間の内に、幼い頃から一諸に育ってきた感覚に囚われたのです。それは皆様も私も共に感じたことなのです。「私の兄弟姉妹とは神の御言葉を聞いて行なう人たち。」(ルカ8:21)なのです。「神は私達の内に住まわせた霊をねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:5~6)聖霊に満たされ、言葉で言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれて、感謝にたえません。


■講壇交換

1/27(日)講壇交換を越生教会と小川教会で行ないました。礼拝後、愛餐会でそれぞれのお交わりをすることができました。

越生教会礼拝

愛餐会


小川教会礼拝

小川教会の皆さんと一緒に記念写真


■3区合同教師会

1/28(月)3区合同教師会が、武蔵豊岡教会&サイボクハムバーベキュー場で行われました。教会で礼拝後、昼食はサイボクハムバーベキュー場に移り、昼食で、美味しい肉と野菜を頂きながら会話が弾みました。普段忙しい先生方も、一息つかれたのではないでしょうか。とても和やかなお交わりがもてました。

武蔵豊岡教会の礼拝風景

分団で、デボーション

バーベキューを囲んで!

昼食の様子


くつ屋のマルチンを通して教えられた隣人愛

「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。(マタイ25:40)。

皆さんは、教会の日曜学校で、数々の劇をされたことがあることでしょう。この聖書箇所は、私がまだ日曜学校の頃、「くつ屋のマルチン」を演じた時に、覚えた聖書箇所です。ロシヤの文豪トルストイが書いたこの物語は、マルチンが熱心に聖書を読んでいるうちに、聖書のキリストが実際に自分を尋ねて来ればよいのにと願うのです。その夜、夢の中で、「マルチン、マルチン、明日通りを見ていなさい。私が訪ねますから」という天からの声を聞くのです。マルチンはそれが夢か真か、分かりませんでしたが、翌日一日中、窓の外を気にしながら仕事をしていました。こうして外を眺めていると、一人の道路掃除夫が除雪しているのが目にとまりました。作業をしながらも、冷たそうに時々手をこすっています。マルチンは彼を家に招き入れて、お茶を与え、ストーブに当たらせました。また、しばらくすると、女の人が古い布袋で赤ちゃんをくるんで、雪の中外に立っているのを窓越しに見て、マルチンは彼女も家に招き入れ、温かい食事を与えました。マルチンはまた助けを求めて彼の家に逃げ込んできたりんごを盗んだ少年、そして少年を追いかけてきたりんご売りの女の人を招き入れ、この女の怒りを和らげて、少年を許すように言いました。二人がマルチンの家を出た時、少年は女の人のりんごの籠をもって仲良く出ていきました。この最後の場面は、マルチンが一本のローソクを灯した仕事場にしょんぼりしている姿です。

「もう日はとっくに暮れていっているのに、イエスさまは来て下さらなかった」と失望しかけたマルチンの目の前に、突然昼間の道路掃除夫、赤ちゃんを抱いた女の人、りんご売りの女の人と少年が現れ、夜、夢の中で聞いた声が聞こえたのです。

「マルチン、マルチン、私たちを知っているでしょう。私がイエスです。」こうして他人の愛の奉仕をする時に、キリストと出会うと言う真理をマルチンは悟ったのです。

私たちも、主イエスから離れることがあるかもしれませんが、神さまは、私たち一人ひとりを知っておられます。ですから、私たちはこの物語のように、隣人愛を持って、神さまの愛を伝える者になろうではありませんか。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5~6)。

越生通信 1月

近況報告

20191/1()元旦礼拝を行いました。この日はお天気にも恵まれました。このお天気のように穏やかな一年であって欲しいと願いました。今年は亥(いのしし)年、その意味は、戌年でたわわに実った果物が種子となり、エネルギーを蓄えて次の世代へと向かう準備とするという意味の年です。また、動物のイメージから、万病を予防するという意味もあります。これは、猪の肉に万病予防の効能があると信じられているところからこのように言われております。そして、猪の猪突猛進な性質から、勇気と冒険の象徴ともされています。さて、皆さん今年は、どんな年にしたいですか。

元旦の風景

越生教会外観風景12/31

12/22()越生教会のクリスマス・イヴ、キャンドルの火を灯して礼拝を守りました。

二部の祝会は、〈童謡を歌う会〉の皆さんと一緒に、懐かしい童謡を聴き、また、輪唱(Do na nobis pacem pacem)やクリスマスソングを歌いました。会場いっぱいに皆さんの歌が響きとても素敵なクリスマス・イヴを守ることができました。〈童謡の会〉の方たちは高齢者の方たちでありましたが、歌っている声はとても若々しくきれいな声で、顔は皆さん輝いていました。 

クリスマス・イヴ説教をする牧師

クリスマス・イヴ礼拝キャンドルサービス

祈り(12月号の続き)

M・A

それから後、「今日の具合はどう?」と声をかけると、「私、死ぬのはちっとも怖くないの」と、突然言い始めた。覚悟を決めたのだなあと感じた。人は死を前にして何を想うのだろうか。孤独の姉は寂しそうだった。弱音を吐かなかなかった姉が、「子ども達が沢山いて、あなたは幸せね……」と言った。

そんな会話をするようになってのある日のこと。その日は私が見舞う当番だった。眠っている姉の側で、私は賛美歌を歌った。終末が近づいているのを察した。私は、目覚めた姉に向かって「牧師さんに来て、祈ってもらいましょうか」と声をかけた。姉は「呼んでください。と言った。そして姉は、病床で洗礼を受けた。その翌日から意識は薄れ、四日目に亡くなった。納棺の時の身体は、まるで抜け殻だった。姉の魂はもうここには無いと、私にはそう見えた。姉の闘病は一年だった。人は、この世を去る時、持っているものを全て置いていかなければならない。それに気づくのは、死を前にした時なのだろう。話は、変わって、今日、シリアで拘束されていた、フリージャーナリストの安田純平さんが、無事解放されたニュースが入った。彼は何度、死を前にしただろう。私たちは、他の国が伝えるニュースを鵜呑みにしてよいのだろうか。真実を知らせる仕事は、いつの時代でも命懸けだ。そんな仕事をしている彼を見て、人々は勝手なことを言う。彼の母親は、何も出来ない身と知りつつも、息子の無事を祈る。その事しかできなかったと。その思いを手に込めて毎晩のように、折鶴を折っていたと話されていた。

「最上のわざ」の詩の中に、「手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために」とある。神は、最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。祈ってもダメなこともあるだろう。全てがうまく行くわけではない。でも、祈る時、今まで見えなかったものが見えてくる。それは心の目だ。その心の目が気づかせてくれる。自分も罪人の一人だと。正しい人はいない。一度も嘘をつかなった人。一度も、他人に嫌な思いをさせなかった人などいない。自分の心も汚れている。それでも祈ろう。

おのれの十字架を、共に背負ってくださるお方がいるのだから……。


―無くてならぬものは多くはないー

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。(ペトロ一5・7)。

自分に与えられた責任を果たす時間がないと思う時は、もともと神が与えられていない責任を引き受けているか、それとも与えられた時間をうまく使っていないかのいずれではないかと考えなければいけないのです。

「もともと神が与えておられない責任」それは、本来、自分がしなくてもよい仕事を、大事に抱え込んでしまうことが誰でもあるのではないでしょうか。仕事も権限も、委譲できるのにそれをしないで忙しくしているのではないでしょうか。忙しくしてどうしようもないということは、人生の価値判断の基準ができていないために右往左往しているのです。

ルカ10章38~42節に、マルタとマリアのお話しが記されています。その中で、イエスがこの姉妹の家に来られた時、マリアはイエスの話に聞き入っていて、マルタは「接待のことで忙しく心を取り乱していた」のです。心を取り乱すということは乱心するということです。心が錯乱して本当の自分を見失ってしまったのです。接待をすることは良いことですが、良いことをしながら。忙しくて自分を見失ってしまう、ここに忙しさの問題があります。このような状態では、喜ぶべきことが喜べなくなり、感謝すべきことが感謝できなくなるのです。マルタは自分だけが台所の仕事をして、イエスの接待をしていることが、なんだか貧乏くじを引いたみたいに感じられたのです。その時イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と言われたのでした。これは多忙の中であくせくしている私たちの病巣をつく言葉です。多忙とはあまりにも多くのことに心を配って思い煩っていることですから、それは無くても良いことです。

本当に無くてはならぬものは多くはないことを、マルタとマリアのお話しから聞きましょう。

越生町童謡を歌う会の皆さん

輪唱を指導する牧師

クリスマス 愛餐会