越生通信3月

近況報告

■2019年3月31日をもって、江田めぐみ牧師は、この越生教会を辞任することになりました。これまでに、担任で1年、主任で3年間この教会で遣わされたことを感謝いたします。越生教会で様々な方たちと接することができました。この4年間過ごした教会生活の中には、数多くの思い出ができました。

山の上にある教会は、神様の創ってくださった大自然に囲まれていて、四季折々多くの恵みを頂くことができました。特に講壇のお花を毎週活けてくださるO姉の素晴らしい感性を生かしたお花は、説教をしている時にいつも励まされました。また、異常気象が続く中で、食べ物のない動物たちが山から下りてきて、特に狸の親子と思われる3匹が肩を寄せ合って牧師館の前の土手で、太陽の光を浴びて日向ぼっこをしている姿がとても微笑ましい姿であったことは、印象深く写真に残っています。

また、越生教会恒例の秋の音楽会には、ドラムサークルやジャズコンサート、チェロ&マリンバと色々なジャンルで音楽を地域の方々にお届けできたことは喜びでした。しかし、その方たちが教会礼拝に繋がらないことは、伝道の難しさを感じました。

教会に隣接するみどり幼稚園との交流は一度以前に断絶していたことから、クリスチャンの園長になってから、花の日の礼拝やクリスマス礼拝を教会で持てるようになったことは感謝です。でも、土曜学校やCSにはつながらず、まだまだ種まきが必要です。越生教会は、高齢者中心でありますので、色々なところで限界があり、それでも皆さんの持っている賜物を生かし活動の出来る方がするという形を取ってきましたが、人数が少ないので限界があるので、これからそれをどのようにするかが課題だと思います。


■伝道する喜び 江田めぐみ

草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神のことばはとこしえに立つ。(イザヤ40:8)

K宅から送られたリードオルガン

以前、講壇交換で東松山教会へ行った時に、とても不思議な出会いがありました。講壇交換後の愛餐会でKさんから、私の父が武蔵豊岡教会の牧師の時、東松山のK宅の家庭集会に呼ばれ、父が賛美歌270番の〈信仰こそ旅路を〉を歌ったこと、そして、その歌がKさんの愛唱歌になっていることをお聞きしました。その頃はまだ東松山教会がなく、K宅で開かれていた家庭集会から、Kさんのお父さんが、土地を寄付して東松山教会が建てられました。Kさんは、高齢になり、断捨離をしている所で、私に今、家にあるリードオルガンを必要とする教会を探して欲しいとの依頼を受け、それから知り合いの教会や、学校等にお声がけするが、なかなか見つけることはできませんでした。ところが、不思議なことに、また、私が次の講壇交換に訪れた小川教会にそのオルガンがあるとの連絡をKさんから頂き、丁度訪れた教会で、そのオルガンを目にすることができました。愛餐会後に、そのオルガンを弾くことができ、とても素晴らしい音色に心が安らぎました。後日、Kさんと電話でオルガンのことを通してまた、Kさん宅の家庭集会から始まった父との出会いや伝道のことについて語り合える一時を持てたことは、感謝でした。私たちの出会いは、主イエス・キリストを通して、神のみ言葉から多くの恵みを頂くことができるのです。この喜びを多くの人々に伝えてまいりましょう。

礼拝風景

旧友と共に記念写真

■ 私が3月にこの教会を辞任することを聞きつけ、2/24(日)高校時代の旧友3人が越生教会の礼拝に出席して、50年ぶりの再会をすることができ、Oさんは、久しぶりの聖書、賛美歌に学生時代を思い出し、懐かしさで、心が震えたとのこと。昔にタイムスリップして、楽しい会話をし、時間を忘れて懐かしい話に花を咲かせました。


幼子のように

 そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国で一番偉いのでしょうか」と言った。(マタイ18:1)。

ある日一人の弟子が、キリストに、「天の国では誰が一番偉いのか」と質問しました。するとキリストは、幼子を呼び寄せ、彼らの真ん中に立たせて、「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることができない」と言ったのです。キリストの言われることは他の人の言うことと大変違っていました。普通の人であったら、子供たちに、成功した大人を指して、大きくなったらあの人のようになりなさいということでしょうが、しかし、キリストは何故そのように言われなかったのでしょうか。

弟子たちは、キリストに服従して立派な働きをすることにより、神の国で高い地位を得たいと願っていたことでしょう。けれども、キリストが示そうとなさったのは、子供たちには地位にあこがれる性質がないということでした。小さい子供たちは、人種的、経済的、宗教的背景などが違っていても、それにこだわることなく平気で遊びます。そんなことを気にするようになるのは、大人になってからです。人間は他人よりも自分の方が知的で才能があり、金持ちで力があると思いたいのです。このような心では、神さまを中心に生きる天国にたとえ行ったとしても、心が満たされることはなく決して幸福ではありません。この意味で、私たちは、小さい子供のように謙虚な心を持たなければいけないのです。

信仰とは信じて仰ぐと書きます。仰ぐとは上を向くことです。天を仰ぎ胸に手をあてて大空を見上げると誰でもしおらしい気持ちになるのです。小さな子供がいつも大人を見上げているように、自分が謙遜になって、神さまを信じますと言うことが大切です。ですから、大人はこのような意味で幼子のようにならなければ天の国に入ることはできないのです。私たちも幼子のような素直な気持ちを持ち、いつも謙遜な心を持ちたいものです。


■〈お礼〉

これまでに、越生通信をご愛読いただきまして、ありがとうございました。第36号をもって終了いたします。皆さまの上に主の豊かな恵みと導きがありますよう、心からお祈りいたします。

越生通信2月

近況報告

■今年の新年合同礼拝は、埼玉和光教会で1/14(月)最寄り二区19教会伝道所他1区より113名が集められました。説教は、子供向けと全体向けに語られ、どちらも同じ聖書箇所(ヨハネ10章7~18節)が用いられました。子どもたちの説教は、坂戸いずみ教会CCスタッフによる「良い羊飼い」の聖書劇を会場全体使って演じられ、演技を見ている会衆も一体となり、随所で笑い声が上がり、とても微笑ましい劇を観ることができました。全体向け説教は、埼玉和光教会の岩河敏宏牧師が、「一つの群れになる」と題して、私たちはどのように養われようとしているか。聖書には私たちを羊にたとえている。旧約聖書詩編100:3、119:176、イザヤ書53:6節のモチーフにはベースとなって今日の聖書箇所を問われている。また、ヨハネ福音書では、「命を捨てる」、「良い羊飼いである」こと、イエスさまは唯一の羊飼いである。そして、善い羊飼いの具体的なことをお話しくださいました。又、聖餐式の恵みも頂き、礼拝後、愛餐会で軽い軽食を頂き、主にある温かい交流を持つことができました。

私は教師委員で、この新年合同礼拝の段取りから、資料作り、印刷、当日の進行役を担当し、多くの喜びを頂きました。又、多くの方々とお交わりをすることができて感謝です。

新年合同礼拝

聖餐式

聖書劇「よい羊飼い」


私に影響を与えた聖霊

M・A

青年会の集会の司式の時に祈っていると「主ご自身があなたと共におられる」(申命記31:8)と、瞼の中に白い衣を着た人が現れたのです。「私達はどう祈るべきかを知りませんが“霊”自らが言葉に表せないうめきをもって執り成して下さるからです。」

(ロマ8:26)と“霊”自らが祈って下さったのです。「言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださる。」(ルカ12:12)これは教団に属した教会から霊の業を通して与えられたのです。

神の応答は病の疑いのある教師の帰国の時も示されたのです。現地の宣教の為には信徒の方々と私達も同じ思いでした。教師のために祈ったことは勿論、教師の所属する教会の信徒の皆様、牧師、関係する人々は心を一つにして祈った事でしょう。病が消え、不安から希望へと光が差したのです。「あなた方も信仰を持ち疑わないならば―その通りになる。信じて祈るならば、求めるものは何でも得られる。」(マタ21:21,22)教師は現地で宣教に励んでいます。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。」(ヤコブ5:15)「願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです。」(ヤコブ4:3)大宮教会で行われた「デボーション」は韓国語の同時通訳で、その内容と証しは圧倒的です。「分かち合い」の時です。私は思いました、逃げ出そう、しかし観念して参加しました。初対面のご婦人方5名と私、大宮教会のご婦人がリーダーで、讃美歌を唄い分かち合いが始まりました。内容の観察、神様はどのようなお方、―生活への適用と祈り、この短い時間の内に、幼い頃から一諸に育ってきた感覚に囚われたのです。それは皆様も私も共に感じたことなのです。「私の兄弟姉妹とは神の御言葉を聞いて行なう人たち。」(ルカ8:21)なのです。「神は私達の内に住まわせた霊をねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる。神は高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる。」(ヤコブ4:5~6)聖霊に満たされ、言葉で言い尽くせない、すばらしい喜びに満ちあふれて、感謝にたえません。


■講壇交換

1/27(日)講壇交換を越生教会と小川教会で行ないました。礼拝後、愛餐会でそれぞれのお交わりをすることができました。

越生教会礼拝

愛餐会


小川教会礼拝

小川教会の皆さんと一緒に記念写真


■3区合同教師会

1/28(月)3区合同教師会が、武蔵豊岡教会&サイボクハムバーベキュー場で行われました。教会で礼拝後、昼食はサイボクハムバーベキュー場に移り、昼食で、美味しい肉と野菜を頂きながら会話が弾みました。普段忙しい先生方も、一息つかれたのではないでしょうか。とても和やかなお交わりがもてました。

武蔵豊岡教会の礼拝風景

分団で、デボーション

バーベキューを囲んで!

昼食の様子


くつ屋のマルチンを通して教えられた隣人愛

「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」。(マタイ25:40)。

皆さんは、教会の日曜学校で、数々の劇をされたことがあることでしょう。この聖書箇所は、私がまだ日曜学校の頃、「くつ屋のマルチン」を演じた時に、覚えた聖書箇所です。ロシヤの文豪トルストイが書いたこの物語は、マルチンが熱心に聖書を読んでいるうちに、聖書のキリストが実際に自分を尋ねて来ればよいのにと願うのです。その夜、夢の中で、「マルチン、マルチン、明日通りを見ていなさい。私が訪ねますから」という天からの声を聞くのです。マルチンはそれが夢か真か、分かりませんでしたが、翌日一日中、窓の外を気にしながら仕事をしていました。こうして外を眺めていると、一人の道路掃除夫が除雪しているのが目にとまりました。作業をしながらも、冷たそうに時々手をこすっています。マルチンは彼を家に招き入れて、お茶を与え、ストーブに当たらせました。また、しばらくすると、女の人が古い布袋で赤ちゃんをくるんで、雪の中外に立っているのを窓越しに見て、マルチンは彼女も家に招き入れ、温かい食事を与えました。マルチンはまた助けを求めて彼の家に逃げ込んできたりんごを盗んだ少年、そして少年を追いかけてきたりんご売りの女の人を招き入れ、この女の怒りを和らげて、少年を許すように言いました。二人がマルチンの家を出た時、少年は女の人のりんごの籠をもって仲良く出ていきました。この最後の場面は、マルチンが一本のローソクを灯した仕事場にしょんぼりしている姿です。

「もう日はとっくに暮れていっているのに、イエスさまは来て下さらなかった」と失望しかけたマルチンの目の前に、突然昼間の道路掃除夫、赤ちゃんを抱いた女の人、りんご売りの女の人と少年が現れ、夜、夢の中で聞いた声が聞こえたのです。

「マルチン、マルチン、私たちを知っているでしょう。私がイエスです。」こうして他人の愛の奉仕をする時に、キリストと出会うと言う真理をマルチンは悟ったのです。

私たちも、主イエスから離れることがあるかもしれませんが、神さまは、私たち一人ひとりを知っておられます。ですから、私たちはこの物語のように、隣人愛を持って、神さまの愛を伝える者になろうではありませんか。

「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる」(箴言3:5~6)。

越生通信 1月

近況報告

20191/1()元旦礼拝を行いました。この日はお天気にも恵まれました。このお天気のように穏やかな一年であって欲しいと願いました。今年は亥(いのしし)年、その意味は、戌年でたわわに実った果物が種子となり、エネルギーを蓄えて次の世代へと向かう準備とするという意味の年です。また、動物のイメージから、万病を予防するという意味もあります。これは、猪の肉に万病予防の効能があると信じられているところからこのように言われております。そして、猪の猪突猛進な性質から、勇気と冒険の象徴ともされています。さて、皆さん今年は、どんな年にしたいですか。

元旦の風景

越生教会外観風景12/31

12/22()越生教会のクリスマス・イヴ、キャンドルの火を灯して礼拝を守りました。

二部の祝会は、〈童謡を歌う会〉の皆さんと一緒に、懐かしい童謡を聴き、また、輪唱(Do na nobis pacem pacem)やクリスマスソングを歌いました。会場いっぱいに皆さんの歌が響きとても素敵なクリスマス・イヴを守ることができました。〈童謡の会〉の方たちは高齢者の方たちでありましたが、歌っている声はとても若々しくきれいな声で、顔は皆さん輝いていました。 

クリスマス・イヴ説教をする牧師

クリスマス・イヴ礼拝キャンドルサービス

祈り(12月号の続き)

M・A

それから後、「今日の具合はどう?」と声をかけると、「私、死ぬのはちっとも怖くないの」と、突然言い始めた。覚悟を決めたのだなあと感じた。人は死を前にして何を想うのだろうか。孤独の姉は寂しそうだった。弱音を吐かなかなかった姉が、「子ども達が沢山いて、あなたは幸せね……」と言った。

そんな会話をするようになってのある日のこと。その日は私が見舞う当番だった。眠っている姉の側で、私は賛美歌を歌った。終末が近づいているのを察した。私は、目覚めた姉に向かって「牧師さんに来て、祈ってもらいましょうか」と声をかけた。姉は「呼んでください。と言った。そして姉は、病床で洗礼を受けた。その翌日から意識は薄れ、四日目に亡くなった。納棺の時の身体は、まるで抜け殻だった。姉の魂はもうここには無いと、私にはそう見えた。姉の闘病は一年だった。人は、この世を去る時、持っているものを全て置いていかなければならない。それに気づくのは、死を前にした時なのだろう。話は、変わって、今日、シリアで拘束されていた、フリージャーナリストの安田純平さんが、無事解放されたニュースが入った。彼は何度、死を前にしただろう。私たちは、他の国が伝えるニュースを鵜呑みにしてよいのだろうか。真実を知らせる仕事は、いつの時代でも命懸けだ。そんな仕事をしている彼を見て、人々は勝手なことを言う。彼の母親は、何も出来ない身と知りつつも、息子の無事を祈る。その事しかできなかったと。その思いを手に込めて毎晩のように、折鶴を折っていたと話されていた。

「最上のわざ」の詩の中に、「手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために」とある。神は、最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。祈ってもダメなこともあるだろう。全てがうまく行くわけではない。でも、祈る時、今まで見えなかったものが見えてくる。それは心の目だ。その心の目が気づかせてくれる。自分も罪人の一人だと。正しい人はいない。一度も嘘をつかなった人。一度も、他人に嫌な思いをさせなかった人などいない。自分の心も汚れている。それでも祈ろう。

おのれの十字架を、共に背負ってくださるお方がいるのだから……。


―無くてならぬものは多くはないー

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。(ペトロ一5・7)。

自分に与えられた責任を果たす時間がないと思う時は、もともと神が与えられていない責任を引き受けているか、それとも与えられた時間をうまく使っていないかのいずれではないかと考えなければいけないのです。

「もともと神が与えておられない責任」それは、本来、自分がしなくてもよい仕事を、大事に抱え込んでしまうことが誰でもあるのではないでしょうか。仕事も権限も、委譲できるのにそれをしないで忙しくしているのではないでしょうか。忙しくしてどうしようもないということは、人生の価値判断の基準ができていないために右往左往しているのです。

ルカ10章38~42節に、マルタとマリアのお話しが記されています。その中で、イエスがこの姉妹の家に来られた時、マリアはイエスの話に聞き入っていて、マルタは「接待のことで忙しく心を取り乱していた」のです。心を取り乱すということは乱心するということです。心が錯乱して本当の自分を見失ってしまったのです。接待をすることは良いことですが、良いことをしながら。忙しくて自分を見失ってしまう、ここに忙しさの問題があります。このような状態では、喜ぶべきことが喜べなくなり、感謝すべきことが感謝できなくなるのです。マルタは自分だけが台所の仕事をして、イエスの接待をしていることが、なんだか貧乏くじを引いたみたいに感じられたのです。その時イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と言われたのでした。これは多忙の中であくせくしている私たちの病巣をつく言葉です。多忙とはあまりにも多くのことに心を配って思い煩っていることですから、それは無くても良いことです。

本当に無くてはならぬものは多くはないことを、マルタとマリアのお話しから聞きましょう。

越生町童謡を歌う会の皆さん

輪唱を指導する牧師

クリスマス 愛餐会

越生通信12月

近況報告

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に枯れることがない。」 (ペテロ一1・24

越生町の山の上にある教会は、神の創ってくださった大自然に包まれています。そんな中で多くの恵みを頂いています。特に四季折々の恵みを活用して、主日礼拝の講壇のお花を活けてくださる沖姉のお働きは素晴らしいものです。ところが彼女が病気になり、しばらく教会へ出てこられなくなった時、彼女の活けてくださっていたお花が今まで当たり前で備えられていたことが、どんなに素晴らしいことであったか感謝せずにはいられませんでした。

彼女も病気が治り、またいつものように講壇のお花を活けてくださる11月の下旬、講壇の前の花は、紅葉したもみじの葉、菊の花と笹百合などのお花が色とりどり入っているのを見て、礼拝に参加された皆さんは説教と共に秋の紅葉を楽しみました。

12月第一主日礼拝では、講壇の前にポインセチアとアドベントクランツのローソクが一本灯りました。

 


―祈り―

M・A

 「この世の最上の業は何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。」これは、ヘルマン・ホイヴェルスの「人生の秋に」の随想集の中にある「最大のわざ」の詩だ。「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。」・・・・・・と続く。神の賜物とは恵みとして与えられたもの。だから素直に受け取りなさいと。

「古びた心に、これで最後の磨きをかける。真の故郷へ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しづつ外していくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために、すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と」 この詩に出会えたのは、今から十年ほど前のこと。老いを感じ始めたころだった。仕事のこと。家族の行く末のことなど。気にかけたらきりがない。いつかは何もできなくなる日がやってくる。無理をしなくていいんだ。自分に言い聞かせていた。そんな折、主人の姉が原因不明で歩けなくなり、やがて骨の癌だと分かった。飛び回っていた人が、ベッドに釘付けの日々となった。不安な姉に、私はこの詩をベッドの傍らで語りかけるように読んだ。神さま、どうぞ、姉の心が平和でいられますようにと。姉は、「自分の寿命はいつまで?」と何度も聞いてきた。医師は半年と言ったが、私は伝えられなかった。寿命は、神さまの領域だから。姉は静かにこの詩を聴いてくれた。(次月号に続く)


―神さまからの休暇―

「わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」(コヘレト12・12)

越生教会恒例の秋の音楽会は、11/11(日)に、「チェロ&マリンバのハーモニー」の演奏をみどり幼稚園ホールで開催することができました。しかし、その前後は牧師の仕事量が大変重なり、その上、音楽会前日にもう一つ急用が入り、私の頭の中は4つの原稿が右往左往していたので、音楽会当日は演奏を楽しむよりも、すべてをこなす難しさを感じたのですが、神さまはすべてをご存知で何とか無事に滞りなく終わることができました。教会以外に、委員会の仕事もあり、書類作り等に追われる日々がありましたが、そんな時にかぎって次から次へ色々な課題が生まれて来るということは、とても不思議に思いました。

そんな中、神さまは私に休暇をくださいました。と言うのも、白内障の手術が先生の都合で急に決まり、ちょうど11月の第五の木曜日は「聖書に親しむ会」が休会であるので、それを使ってその前後に手術をすることになりました。病院へ行くと満床であったのか、個室へ通され、そこで手術前に静かに読書しながら、点眼液を何回も入れ、手術に備えました。左目だけの手術でしたから、30分位で全工程が終わり、病室へ戻りその後1時間安静にと言われていましたが、読書を続けていると、さすがに看護師さんから、注意を受けてしまいました。そんな時瞑想して祈る時間を与えてくださったことも幸いにして、思わぬ一日の休暇を頂いたことに感謝しました。顔半分大きな眼帯で覆われていますので、眼鏡をかけられず、家に帰ってからも、安静にしていなければいけないので、夕食は主人が牡蠣と大根のあんかけスープを作ってくれ熱いスープを頂き、ほっとした気持ちになり、忙しさにかまけている中でも神さまが与えてくださった休日に、感謝しました。「学びすぎれば体が疲れる」というように、皆さんも体を休めることをお忘れなく!


 

 

 

 

 

越生教会玄関前のステンドグラス(江田兄作)