越生通信 1月

近況報告

20191/1()元旦礼拝を行いました。この日はお天気にも恵まれました。このお天気のように穏やかな一年であって欲しいと願いました。今年は亥(いのしし)年、その意味は、戌年でたわわに実った果物が種子となり、エネルギーを蓄えて次の世代へと向かう準備とするという意味の年です。また、動物のイメージから、万病を予防するという意味もあります。これは、猪の肉に万病予防の効能があると信じられているところからこのように言われております。そして、猪の猪突猛進な性質から、勇気と冒険の象徴ともされています。さて、皆さん今年は、どんな年にしたいですか。

元旦の風景
越生教会外観風景12/31

12/22()越生教会のクリスマス・イヴ、キャンドルの火を灯して礼拝を守りました。

二部の祝会は、〈童謡を歌う会〉の皆さんと一緒に、懐かしい童謡を聴き、また、輪唱(Do na nobis pacem pacem)やクリスマスソングを歌いました。会場いっぱいに皆さんの歌が響きとても素敵なクリスマス・イヴを守ることができました。〈童謡の会〉の方たちは高齢者の方たちでありましたが、歌っている声はとても若々しくきれいな声で、顔は皆さん輝いていました。 

クリスマス・イヴ説教をする牧師
クリスマス・イヴ礼拝キャンドルサービス

祈り(12月号の続き)

M・A

それから後、「今日の具合はどう?」と声をかけると、「私、死ぬのはちっとも怖くないの」と、突然言い始めた。覚悟を決めたのだなあと感じた。人は死を前にして何を想うのだろうか。孤独の姉は寂しそうだった。弱音を吐かなかなかった姉が、「子ども達が沢山いて、あなたは幸せね……」と言った。

そんな会話をするようになってのある日のこと。その日は私が見舞う当番だった。眠っている姉の側で、私は賛美歌を歌った。終末が近づいているのを察した。私は、目覚めた姉に向かって「牧師さんに来て、祈ってもらいましょうか」と声をかけた。姉は「呼んでください。と言った。そして姉は、病床で洗礼を受けた。その翌日から意識は薄れ、四日目に亡くなった。納棺の時の身体は、まるで抜け殻だった。姉の魂はもうここには無いと、私にはそう見えた。姉の闘病は一年だった。人は、この世を去る時、持っているものを全て置いていかなければならない。それに気づくのは、死を前にした時なのだろう。話は、変わって、今日、シリアで拘束されていた、フリージャーナリストの安田純平さんが、無事解放されたニュースが入った。彼は何度、死を前にしただろう。私たちは、他の国が伝えるニュースを鵜呑みにしてよいのだろうか。真実を知らせる仕事は、いつの時代でも命懸けだ。そんな仕事をしている彼を見て、人々は勝手なことを言う。彼の母親は、何も出来ない身と知りつつも、息子の無事を祈る。その事しかできなかったと。その思いを手に込めて毎晩のように、折鶴を折っていたと話されていた。

「最上のわざ」の詩の中に、「手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために」とある。神は、最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。祈ってもダメなこともあるだろう。全てがうまく行くわけではない。でも、祈る時、今まで見えなかったものが見えてくる。それは心の目だ。その心の目が気づかせてくれる。自分も罪人の一人だと。正しい人はいない。一度も嘘をつかなった人。一度も、他人に嫌な思いをさせなかった人などいない。自分の心も汚れている。それでも祈ろう。

おのれの十字架を、共に背負ってくださるお方がいるのだから……。


―無くてならぬものは多くはないー

「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけてくださるからです。(ペトロ一5・7)。

自分に与えられた責任を果たす時間がないと思う時は、もともと神が与えられていない責任を引き受けているか、それとも与えられた時間をうまく使っていないかのいずれではないかと考えなければいけないのです。

「もともと神が与えておられない責任」それは、本来、自分がしなくてもよい仕事を、大事に抱え込んでしまうことが誰でもあるのではないでしょうか。仕事も権限も、委譲できるのにそれをしないで忙しくしているのではないでしょうか。忙しくしてどうしようもないということは、人生の価値判断の基準ができていないために右往左往しているのです。

ルカ10章38~42節に、マルタとマリアのお話しが記されています。その中で、イエスがこの姉妹の家に来られた時、マリアはイエスの話に聞き入っていて、マルタは「接待のことで忙しく心を取り乱していた」のです。心を取り乱すということは乱心するということです。心が錯乱して本当の自分を見失ってしまったのです。接待をすることは良いことですが、良いことをしながら。忙しくて自分を見失ってしまう、ここに忙しさの問題があります。このような状態では、喜ぶべきことが喜べなくなり、感謝すべきことが感謝できなくなるのです。マルタは自分だけが台所の仕事をして、イエスの接待をしていることが、なんだか貧乏くじを引いたみたいに感じられたのです。その時イエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである」と言われたのでした。これは多忙の中であくせくしている私たちの病巣をつく言葉です。多忙とはあまりにも多くのことに心を配って思い煩っていることですから、それは無くても良いことです。

本当に無くてはならぬものは多くはないことを、マルタとマリアのお話しから聞きましょう。

越生町童謡を歌う会の皆さん
輪唱を指導する牧師
クリスマス 愛餐会

越生通信12月

近況報告

「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし主の言葉は永遠に枯れることがない。」 (ペテロ一1・24

越生町の山の上にある教会は、神の創ってくださった大自然に包まれています。そんな中で多くの恵みを頂いています。特に四季折々の恵みを活用して、主日礼拝の講壇のお花を活けてくださる沖姉のお働きは素晴らしいものです。ところが彼女が病気になり、しばらく教会へ出てこられなくなった時、彼女の活けてくださっていたお花が今まで当たり前で備えられていたことが、どんなに素晴らしいことであったか感謝せずにはいられませんでした。

彼女も病気が治り、またいつものように講壇のお花を活けてくださる11月の下旬、講壇の前の花は、紅葉したもみじの葉、菊の花と笹百合などのお花が色とりどり入っているのを見て、礼拝に参加された皆さんは説教と共に秋の紅葉を楽しみました。

12月第一主日礼拝では、講壇の前にポインセチアとアドベントクランツのローソクが一本灯りました。

 


―祈り―

M・A

 「この世の最上の業は何?楽しい心で年をとり、働きたいけれども休み、しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に、おのれの十字架をになう。」これは、ヘルマン・ホイヴェルスの「人生の秋に」の随想集の中にある「最大のわざ」の詩だ。「若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、ねたまず、人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること。老いの重荷は神の賜物。」・・・・・・と続く。神の賜物とは恵みとして与えられたもの。だから素直に受け取りなさいと。

「古びた心に、これで最後の磨きをかける。真の故郷へ行くために。おのれをこの世につなぐ鎖を少しづつ外していくのは、真にえらい仕事。こうして何もできなくなれば、それを謙遜に承諾するのだ。神は最後に一番よい仕事を残してくださる。それは祈りだ。手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために、すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。『来よ、わが友よ、われなんじを見捨てじ』と」 この詩に出会えたのは、今から十年ほど前のこと。老いを感じ始めたころだった。仕事のこと。家族の行く末のことなど。気にかけたらきりがない。いつかは何もできなくなる日がやってくる。無理をしなくていいんだ。自分に言い聞かせていた。そんな折、主人の姉が原因不明で歩けなくなり、やがて骨の癌だと分かった。飛び回っていた人が、ベッドに釘付けの日々となった。不安な姉に、私はこの詩をベッドの傍らで語りかけるように読んだ。神さま、どうぞ、姉の心が平和でいられますようにと。姉は、「自分の寿命はいつまで?」と何度も聞いてきた。医師は半年と言ったが、私は伝えられなかった。寿命は、神さまの領域だから。姉は静かにこの詩を聴いてくれた。(次月号に続く)


―神さまからの休暇―

「わが子よ、心せよ。書物はいくら記してもきりがない。学びすぎれば体が疲れる。」(コヘレト12・12)

越生教会恒例の秋の音楽会は、11/11(日)に、「チェロ&マリンバのハーモニー」の演奏をみどり幼稚園ホールで開催することができました。しかし、その前後は牧師の仕事量が大変重なり、その上、音楽会前日にもう一つ急用が入り、私の頭の中は4つの原稿が右往左往していたので、音楽会当日は演奏を楽しむよりも、すべてをこなす難しさを感じたのですが、神さまはすべてをご存知で何とか無事に滞りなく終わることができました。教会以外に、委員会の仕事もあり、書類作り等に追われる日々がありましたが、そんな時にかぎって次から次へ色々な課題が生まれて来るということは、とても不思議に思いました。

そんな中、神さまは私に休暇をくださいました。と言うのも、白内障の手術が先生の都合で急に決まり、ちょうど11月の第五の木曜日は「聖書に親しむ会」が休会であるので、それを使ってその前後に手術をすることになりました。病院へ行くと満床であったのか、個室へ通され、そこで手術前に静かに読書しながら、点眼液を何回も入れ、手術に備えました。左目だけの手術でしたから、30分位で全工程が終わり、病室へ戻りその後1時間安静にと言われていましたが、読書を続けていると、さすがに看護師さんから、注意を受けてしまいました。そんな時瞑想して祈る時間を与えてくださったことも幸いにして、思わぬ一日の休暇を頂いたことに感謝しました。顔半分大きな眼帯で覆われていますので、眼鏡をかけられず、家に帰ってからも、安静にしていなければいけないので、夕食は主人が牡蠣と大根のあんかけスープを作ってくれ熱いスープを頂き、ほっとした気持ちになり、忙しさにかまけている中でも神さまが与えてくださった休日に、感謝しました。「学びすぎれば体が疲れる」というように、皆さんも体を休めることをお忘れなく!


 

 

 

 

 

越生教会玄関前のステンドグラス(江田兄作)

越生通信 11月

近況報告

■11/4(日)永眠者礼拝と聖餐式の恵みを頂き、愛餐会を16名で行い、昔の懐かしい思い出話を聞くことができました。その後、越生教会墓地まで向かい、記念墓前礼拝を守ることができました。

 

 

 

 

 


■11/11(日)秋の音楽会チェロ&マリンバの素敵な調べに合わせて、みどり幼稚園ホールで、45名参加され演奏を楽しく聴くことができたました。マリンバは、最大の長さ(2m70cm)で、音域は5オクターブまででて、音も大変心地よい音とともに、マレット(バチ)を両手に持ち、弾むような音を聴くことにより、心も弾みました。そして、チェロの奏でるベースの音に会場の皆さんは聴き入りました。お二人の演奏者は姉妹であるので、お二人の息もぴったりと合い聴いている私たちにも、それが伝わりました。とても素敵な音楽会に感謝!

演奏会後の記念写真

 

 

 

 

 


―私に影響を与えた人―

M・E

私の父は、牧師、幼稚園園長、母は幼稚園副園長でしたので、牧師家庭の中で私は育ちました。また、私は、小さい時から、多くの人が教会を出入りする人々の中で、色々なことを見聞きすることができました。

父は、牧師でも特に霊的に神さまから賜物を頂いていたので、数々のいやしの賜物がありました。例えば、「ネフローゼの赤ちゃんが、お腹が膨れて大変である」と連絡をいただくと、そこへ行って祈り、その子のお腹に手をおいて祈ると、みるみるお腹の水が出ていく場面や、交通事故を起こしたHさんのご家族から、呼ばれて行き、瀕死の中にいるHさんの上に手をおき祈るとその人が「一命をとりとめた」こと。そして、ある盲人の老女の目の上に手をおいて祈ると、かすかな光がその老女に見えるようになったなどということが起こりました。私はそのようなことを見聞きしていましたので、牧師は誰でもそのようなことができるものだと思っていました。ある一信徒が父を見て、「牧師先生にできないことは、子どもを産むことですね」と言われていたことをよく母から聞いていました。母もまた、霊的賜物を持った方でしたので、「疲れた者や悩みのある者」など色々な方の相談にのり、お世話して甲斐甲斐しく働いている姿を見て私は育ちました。

気がつくと、私も牧師になりましたが、父のようにはできない自分がいることに気づき、自分が育てられた環境は本当に恵まれていたことに気づき、多くの人々から沢山のことを頂いたことは感謝です。私も神さまから頂いた賜物は違いますが、これからも自分のできることを祈りつつ歩んでいきたいと思っています。


■公開神学講演会が、10/16(火)、東京神学大学で行われました。主題は、「バルト神学を見直す―没後50年、ドイツ語圏の動きー」を、芳賀力教授が講演されました。キリスト中心的とみなされてきたバルト神学が、実は初めからきわめて聖霊論的な特徴を持つ神学であったということ。また、オプストによれば、バルトは霊の働きを単に認識論だけに位置づけたのではなく、和解の出来事全体を聖霊論的に締めくくる位置に置いたのである。彼の和解論においてはじめて霊の「力の領域」について語っている等、大変有意義な講演会を拝聴できました。


■ ―感謝する言葉―

「神がお造りになったものはすべて良いものであり、感謝して受けるならば、何一つ捨てるものはないからです。」(1テモテ4・4)。

皆さんは、感謝の気持ちを表す時に、どんな言葉で言われますか。一番多く使われている言葉は、「ありがとう」と言う言葉ではないでしょうか。笑顔で「ありがとう」と言われると、言われた人も、言った人も明るくなるのではないでしょうか。「感謝とは利益を付随する徳である」とエピキュロスは言っています。

また、商人は、お客様に向かって「ありがとう」の言葉を言います。ですから、新入社員がまず初めに覚えるのが、「いらっしゃいませ」と「ありがとうございます」を練習して、初めて現場に立つことができるといいます。

ところが、忙しく動いている世の中を見ますと、カセットに吹き込みを入れて「毎度ありがとうございます」と流れてくる言葉を聞くと、ハードな言葉で、機械的なことであるので、繰り返されても効果はありません。私たちは、本当の「ありがとう」の言葉を魂から出て、魂に届く声を聞きたいのです。

感謝と言う言葉を辞書で調べると、「ありがたく感じて謝意を表すこと」「心から感謝する」と書かれています。感謝の心は、自分が示してくれる笑顔や感謝の身振りの上に、その人生観を築きあげていくのです。だから、骨惜しみせずに「ありがとう」を言いたいものです。

感謝は商人がいつもそろえて置くことのできる最も、もうけの多い商品です。「ありがとう」は商売を繁盛させます。

「ありがとう」は友人を作ります。

さあ、私たちは、「ありがとう」の言葉に隠されている秘密を見つけられるでしょうか。

この「ありがとう」の言葉をいかに使うかで、自分の人生も他人の人生も明るくバラ色にすることができるのです。皆さんは、「ありがとう」を感謝の気持ちを込めて使っていますか。

 

越生通信9月

近況報告

■8/19(日)江田師は夏休みのため、主日礼拝は中村町教会を訪ねた。牧師は、東京神学大学の教授であり、恩師の説教を御言葉から始まりみ言葉で終わる力強い説教を拝聴することができ感謝である。今、パラグアイの宣教師として伝道している知花スガ子宣教師は、中村町教会の協力牧師であり、ここの教会の皆さんが支えてくださり、守られていることが、司式者の祈りを通して、また、説教者の世界宣教を通して知ることができ、我がことのように嬉しくなった。パラグアイの新会堂建設もいよいよ始まり、大きなトラクターが入り、整地を始めた。但し現地の習慣は日本と違い、マイペースな動きを見守りながら進んでいるとのこと。皆さん新会堂建設を覚えて、お祈りください。

中村町教会 外観
礼拝風景

 

 

 

 


■昨年の夏休みの主日礼拝は、東村山教会へ出席した時も、特別説教で加藤常昭先生の説教を拝聴することができたことは、感謝であった。その時の説教の御言葉は、今でも思い出す。御言葉から、スイート(甘い)を感じ取るようにという説教を聞いて、喜びを頂いて帰ってきたことを思いだす。説教を聞いて、私たちはその御言葉に生かされ、一週間の歩みを喜びをもって生活できることは、何とすばらしいことか。御言葉には、神の力と聖霊が働いて私たちの枯れていた生活に潤いを頂けることは、感謝である。


―私に影響を与えた本ー

T・Y

十字架上において、他の人間全てから見放された孤独のどん底で、イエスは神を呼び求めた。その箇所を読んだ最初の頃、孤独の中でこそ、人は神と向き合うのだろうと思った。 同じ頃に、森有正を読んでいた。人は、固有の経験をもって生きるが故に、他のものとは置き換えられない。それが個としての私という存在であり、その現実を孤独として受け止めていく。誤読かもしれないが、森有正の語る〈孤独〉という言葉をそう理解した。

アブラハムが神の呼びかけに応え旅立ったのは、森有正の言葉でいえば〈内的促し〉であった。他者の入り込めない内面の孤独において、人は神と向き合い対話する。その対話があって、私たちは個を確立する。個人が自覚されてこそ、自由と責任は意味を持つ。他人の言葉や世の常識などに左右されるのではなく、神と己との一対一の関係の中で、人は自身の在り方を問い、いかに生きるかという促しを与えられて、人は責任と自由を持つ主体となるのではないか。アブラハムの旅立ちとは、そういうものであったのではないか。

最終的には、人は自分で判断し、自分の責任で自由に行動する。そして全ての結果は神に委ねるしかない。20代の前半に森有正を読み、その影響を受けたものとして生きてきたように思うが、それが影響に縛られたものなのか、それとも純粋に自身の判断なのか、今だによくは分からないが。

 

 

 

 

 

 

森村有正作品


■-内省の目ー

 「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明るいが、濁っていれば、全身が暗い」(マタイ6・22~23a)

私たちは、人に対して賢明であるよりも、自分自身に対して賢明である。私たちは、人のアラは良く見えるものである。そして、他人の背中もよく見えるが、自分の背中は見えない。人間の目は他人を見ることには都合よくできている。けれども、自分を見ようと思うと、鏡を使わなければ分からない。心の目についても同じことが言える。ある人たちは他人の心を読む。しかし、自分自身の心を見る視力は当てにはならない。私たちの心もまた鏡を使わなければ見ることができない。

相手の欠点が強く目に映れば映るほど、同じ欠点が自分にもある。相手の欠点は自分の欠点を気付かせてくれる鏡である。人のことは良く見えるから。しかし、自分の心が「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか」(エレミヤ17・9)に気付いている人は少ない。

私たちは、人に対して賢明であるよりも、自分自身に対して賢明であることを学ばなければならない。批判は、批判を受けている「ちり」に比べるなら、「梁」であることに気づかなければならない。私たちの目が人を見ているように、私たちもまた、人から見られている。「人の振り見て、わが振りなおせ」ということわざがあるが、「自分自身の不幸によってよりは人の不幸によって学ぶ方がずっといい」のである。けれども、私たちの目にとまる人の欠点や失敗は、鏡に映った自分のものであることに気づかない。

 自分自身に対して賢明であることより、他人に対して賢明であることの方がずっと優しいのではないか。

私たちも人の経験の中に自分を見る内省の目を育てなければいけない。目は心の窓というように、いつも澄んだ目を持ちたいものである。